Critical Space Archive

岡崎乾二郎【見ることの経験】
絵画、両立しない複数の空間が出会う場
……論文の最初にアブソープション(没入)という概念を出されてましたが、それは今の話に関連してきませんか。

 アブソープションはマイケル・フリードの言った言葉ですね。ブルネレスキとは直接かかわるわけではありませんが、今までの話を復習しながら、なんとかつなげてみましょう。
 ごぞんじのようにフリードは、グリンバーグの批評を正統に継承した人のように見なされています。しかし、ゆえに彼はグリンバーグ理論が抱えていた矛盾を修正しなければならなかったわけですね。
 代表的なのは、先ほども言ったように19世紀以来の形式主義の純粋視覚性にもとづいた原理と、ジャンルそれぞれの固有性への還元というグリンバーグがモダニズムの条件として唱えた原理、この二つの原理がつくり出す矛盾です。この二つが一致しないことは端的に絵画のジャンルとしての固有性が平面性に還元されるといった時に現れる。つまり絵画が絵画というメディウムの固有性を純化していった究極において、それは物理的な平面に還元され、つまりは単なる物体になってしまうということです。
 これが例の「何も描かれていないタブローでも、それが壁に掛けられさえすれば、絵画足りうる」、という、いささかヤケクソぎみなグリンバーグのテーゼに示されています。これは、「それが何であれ展示空間に置かれれば、彫刻としての客体性が保証される」というのと同じ論理ですね。フリードの修正の重要な点は、ゆえに、絵画や彫刻というジャンルの画定は、なんら先験的なものではなく展示形式にただ依存して行われるだけだと見抜いた点にあります。
 グリンバーグの言ったモダニズムの条件「ジャンルの画定」という作業――それが彫刻であるか絵画であるとかの区分自体――は重要なものではない、と彼は言い切ったわけです。さらに、もう一方の「視覚性」と呼ばれていた原理が、暗黙に前提にしているところの「ニュートラルな視覚」にも彼は疑問を投げかける。というのもあらかじめ、作品とそれを見る観客という二項が位置づけられるべき共通の場が保証されることによって、初めてその「視覚」の中立性は保証されるからです。つまりはこれも観客というきわめて抽象的な存在を前提に創造されたきわめて抽象的な産物である。
 このようにフリードの批判のすべては、シアトリカリティという展示形式批判に集約されることになる。彼にとってみれば、絵画と彫刻の分別もシアトリカルというジャンルに内属することになるわけですね。
 アブソープション――没入という概念は、こうしたシアトリカルな作品形式に対抗するためにもちだされたものだと言っていいでしょう。簡単に言うと、観客から見られることを前提にせずに成立する作品のあり方とでも言えるでしょうか。マイケル・フリードはその例としてフランスの18世紀後半の絵画を取り上げています。たとえばシャルダンの絵画の中に描かれた人物たちは、夢中になって本を読んでいたり、独楽で遊んでいたり、自分の行為に没入して、観客から見られていることをまったく意識していない。反対にそうした絵を見る観客にとってみると、なぜ、それを、どこから見ているのかわからない、いわばその見ている世界から、それを見ている主体自身が消去されてしまったような非在感(臨死体験のような)に襲われる。
 こんな観客の非在という効果に、フリードが込めた意図は、展示という予定調和的な空間に依存せずに、作品が自律するための一つのモデル足りえるということでしょう。フリードは論を展開するうちに、登場人物が自身の行為に没入する行為を、いつしか絵画を描くという行為に没入する画家に重ね合わさ始め、あげくは、登場人物も画家もいかなる主体も消えうせ、すべては、ただ絵画それ自身が自分自身の生成に没入していくという閉じたサイクルに吸収されていくとさえ論じるようになるのですから。
 こうなると彼の意図はあからさまです。それを外部から見る視点(観客)もそれが位置づけられるべき空間もなく、作品が自律する様態を示すこと。観客の消去ということでいえば、没入の効果は、カントが芸術作品の条件に挙げた、「無関心性」という条件にも近いようにも感じられます。 けれど、一方でこれは自己言及的な構造をつくって、その存在の起源への問いを抹消するという、あまりによくあるストーリーというべきで、論としてトリッキーすぎます。つまりは無媒介的にその存在を認めさせようとするあまり、結果的に、いかなる主体も視覚もなしに、像が自動的に写像されるという、例の象徴形式としての写真装置のあり方に、近似していってしまっているように思える。
 皮肉なことに、それこそが、フリードが批判しようとしていた、近代の展示形式を保証していた当のものだったわけですから。実際のところ、観客などもともと、いなくてもいいのです、写真にさえ撮影されれば、展示という行為は完了する。『観察者の系譜』のジャナサン・クレーリーではないですが、すべてを統制するところの外部の超越的な視点、は、このカメラの中にこそ想像的に担保される。このように最終的にフリードの論は、彼が対抗しようとした立場に吸収されてしまっているようにすら思われます。
 フリードの論で可能性が感じられるのは。没入という概念よりも、むしろ視覚を差異性として、捉えようとしたところにある。しかし、こっちは十分に展開されていません。この論を展開していけば視覚は消去されるどころか、絶え間なく分岐生成していくという、その進行しつつあるプロセスの中でだけ、はじめて、視覚は可能になるとさえいえるはずなんですが。

……絵画であれ彫刻であれ建築であれ、それらは視覚空間の問題であると同時にやはりそれをどう見るかということでは、やはり見る側の問題でもあると?

ええ、絵画だけではないですが、変換の過程ということで、たとえれば、ものを視るという行為には、そもそも文章を読んだりするのと同じ側面があるのではないかと考えています。文は、単に単一なシンボルとしてだけ成立しているわけではない(イコノグラフィに解消されるようなものではない)。
 読むというのは、むしろ推理、学習の進行し続けるプロセスです。単語を読むとは、その語に代わりうる複数の語のパラディグム(変換可能性)を見てとることであるし、文(そのシンタックス)というのは、さらにこんな単語が複数そこで出会うということであり、つまりはそこで出会っているのは、複数の異なるパラディグムだということになる。
 単語とはわれわれの視覚が捉える個々のイメージにほかならないし、絵画というのは、こうした潜在的に可能な複数の異なるパラディグム――つまりは両立しえない複数の空間が出会う文章のような場にほかならないわけですね。マサッチオやブルネレスキの作品を例にして、示したかったことは一言でいえば、そういうことだったと思います。

……今日は長い時間ありがとうございました。

※ この論文は長文のため、以下テーマごとに分割しました。本ページが最終ページとなります。
▼ 見ることの経験 <序>
▼ 透視図法とはなんだったか
▼ 変換装置としての知覚
▼「ブランカッチ礼拝堂」の謎解き
▼ ルネサンス再考
▼ ビザンチンの遠近法
▲ 絵画、両立しない複数の空間が出会う場

〓 全文一括:テキスト(.txt)ファイル

swf「ブランカッチ礼拝堂壁画レイヤー解析SWF」サンプル版

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