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……岡崎さんは「経験の条件」(雑誌『批評空間』連載)という論文で、ブルネレスキの透視装置の意味について言及されておられました。ルネサンス期に確立したとされる遠近法=透視図法のシンボリックな装置として一般的に知られているブルネレスキの透視装置は、じつはそうした言説とは裏腹に、後に徐々に明らかになる透視図法のはらむ矛盾を、むしろ予知し解決するための試みであった。現実の世界を物質的な桎梏から解放し、純粋に数学的な関係に昇華することがブルネレスキの真意だったというのです。そしてこの関係から捉え直す限り、現実の世界の構造物と装置によって得られる画像との区別はなくなってしまう。この関係が見えもしないし知覚されもしない、いわば悟性によってのみ認識されることを、ブルネレスキは示唆しようとしていたのではないかと。ブルネレスキから多くのヒントを得て後にアルベルティによって体系化された透視図法、しかしブルネレスキの真の革新性は、その体系化によってむしろ見えにくくなってしまった。
このように、われわれの常識としてきたこれまでの視覚の議論に、岡崎さんの論文は、大きな疑問符を投げかけました。「経験の条件」で展開された議論を手掛かりに、岡崎さんが問題にしようとされた視覚と作品(視覚芸術)の関係をお聞かせください。 |
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美術批評あるいは美術史の方法にフォーマリズムと呼ばれる方法論があります。目に見える視覚的データだけに沿って作品形式を分析していこうという、主に19世紀以降に現れた純粋可視性の理論ともいわれる方法ですが、けれど視覚的な原理だけを徹底的に推し進めていく時、いうまでもないことですが、それがもたらす結論は、客体的な形式に、とても収斂しきれるものではなくなってしまうんですね。視覚というのは、悪くいえば無節操、良くいえば可変性に富み、印象派が発見したように、与えられたデータを複合、加工、修正することにさえ長けているわけですから。端的にいって固定され静止した視点というものは人間の視覚にはじつはありえない。それはそもそも受動的ですらない。つねに複合的かつ能動的なものだということです。印象派からセザンヌにかけての展開でこれは一つの画家の常識にまでなっていた。 |
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ここで客体的な形式といっているのは、絵画であるとか、彫刻であるとかの従来からあるさまざまなジャンルがそれぞれを律するために保持しているところの形式のことだと、とりあえず、言っておいてもいいでしょう。視覚という能力にだけ従えば、それらのジャンルの区分というのは、おおかた乗り越えられ無効になってしまう。印象派は、こうした意味できわめて大事件だったわけです。彼らが発見した視覚的原理は、従来の絵画という枠組みには納まりきれないものだったわけですから。言い換えれば従来の絵画の形式からすれば、それは半端で未完成なものに見える。しかし視覚に即せば、当然のことながら完成、未完成ということの区分などない。ゆえにそれはロダンやらロッソやらヒルデブラントやらの彫刻家にこそ深刻な影響を与え、そして彫刻家であり理論家であったヒルデブラントがそうしたように美術史的な方法にまで変更を迫ることになる。 |
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このように印象派の発生とフォーマリズム理論の生成は平行していますが、結局のところ問題は、主観的と言われてしまうほかない感覚の論理を(それが、印象派と皮肉られてしまったゆえんですが)、いかに客体的な形式に結び付け、押さえ込むことができるか、ということに尽きると思います。このあたりが、たぶん一般的にも理解されている後期印象派以降の展開であり、20世紀以降の美術史あるいは批評の展開の出発点でもあるでしょう。 |
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※ この論文は長文のため、以下テーマごとに分割しました。続きは[NEXT]ボタンでご覧ください。
▼ 透視図法とはなんだったか
▼ 変換装置としての知覚
▼「ブランカッチ礼拝堂」の謎解き
▼ ルネサンス再考
▼ ビザンチンの遠近法
▼ 絵画、両立しない複数の空間が出会う場

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