 |
■ ルネサンス再考 |
|
……画集を編集していて、もしも写真のポジを誤って裏表逆に使ってしまったら一大事ですが、当時はそうでもなかったわけですか。 |
|
というよりも先ほどカントの思考実験をお話したように、左右の反転に気づくというのは、そこである変換操作がなされているということであり、さらに、その変換軸の存在に気づかせるという効果があると思うんですね。単純にいって左右の反転を気づかされる時、その瞬間、われわれは、今、われわれが視ているところのイメージが、いかなる特定の平面にも帰属していない、奇妙に宙づりにされてしまったもののように感じるわけです。それはそれに気づいている自分も同様で、現実的な空間のどこにも、その主体が位置づけられず宙づりにされているように感じるということなんですが。そういえば、マサッチオの画集でどういうわけか「三位一体」の壁画の図版が左右逆版というのが多いんですね。 |
|
もちろんブルネレスキの存在を考えてもわかるように、こうした操作は絵画というジャンルに内属しているだけでは当然生まれてくるものではないし、理解されることもないもののはずです。たとえば変換といえば、13世紀以降にポリフォニー(多声法)が発達してきた契機になったのは記譜法の発明が貢献したということは、よく言われます。ゲーザ・サモシは『時間と空間の誕生』でこれが直線的な時間という観念が発生した一つの契機になったように書いていました。記譜法によって複数の声部の進行を一つに同期させることが可能になったというわけですね。むしろ僕はそれに反対で、記譜法によってむしろポリフォニーという非同期的な構造が可能になったと文字どおり考えるべきだと思います。 |
|
たとえば、ルネサンスのポリフォニー音楽の最も中心的な技法の一つに「通し模倣」(後の対位法)というものがありますが、互いに独立した各声部が相互に相手の旋律の模倣を繰り返すものです。こういうと単純なように聞こえますが、この模倣の技法には、順行、逆行、反行、逆反行と四つの型があり、つまり、同一のメロディを時間的に裏返したり、逆向きに演奏したり、旋律の型をそのまま縮小したり拡大したりというきわめて数学的な操作が加えられるわけです。 |
|
これを演奏しようとする場合、当然、相当高い技術力が必要になりますが、しかしカルトーネを用いて描き出された絵画と同じように、このような自由な転写=模倣という変換操作は記譜法の使用によって初めて可能になったし、実際容易にもなった。 |
|
重要なのは、こうした複雑な音楽の全体を同時に聞いてとることなどできるはずがないということです。それが同期しているかどうかすらわからない。けれどそこにさまざまに屈折反転を繰り返す変換過程があることは、われわれの耳が同じくその変換操作を耳の中で繰り返すことによって理解されうるわけです。言い換えればここで、演奏者と聞き手の区分がないということですが。 |
|
ポリフォニーの構造はそもそも、中世以来の記憶術の構造とも連関していたし、記憶術がそもそも高度に数学的な変換の術でもあったことを考え、さらに時代は後になりますが、変換の幾何学でもある、デザルクらの射影幾何学を真ん中におけば、ブルネレスキの透視図法とこれらの操作がまっすぐにつながるものであることがはっきりつかめます。ブルネレスキやマサッチオの方法は到底、美術というジャンルだけに納まる問題ではなかったということですね。 |
|
……ルネサンスというと人間性の復権とか感性の解放というような見方で一般的に捉えていますが、もっとずっと広い射程で捉え直した方がいいのかもしれませんね。 |
|
これは余分な話になりますが、「ブランカッチ礼拝堂」の解析に僕はコンピュータを使ったわけですけれど、現代美術を同じようにコンピュータで解析してもちっとも面白くないんですね。現代美術の方がずっと単純だからでしょう。それに対して、古典絵画ははるかに複雑ですから、解析していくと、それこそ、後から後からさまざまなレイヤーの重なりが現れてきて、情報量はよほど多い。あらかじめこうしたコンピュータを使って解析するという、きわめて現代的な観賞がなされることを前提に、作品が組み立てられていたのだというような趣すらありますね。それはポリフォニー音楽にしても同じことです。 |
|
対してアルベルティさらにレオナルドの、壁一枚に画面一つを描くべしという規範は、これは展示の方法だったわけですね。与えられた部屋にいかに効果的に作品を展示し、多数の観客の感情を一つに同期させるか。むしろ展示という観賞形式にその形式は従属していた。そういう意味でこれは現代美術のインスタレーションの方法にそのまま引き継がれているわけですね。ホワイトキューブという展示空間つまり部屋が与件として与えられた時に、最も効果的に作品を展示するにはどうすればいいか。瞬間に作品の全体が、まさにそこに生々しく現前するという効果を与えるように展示するには、基本的にどんな大きな部屋であれ、小さな部屋であれ、一つの部屋に一作品の展示がベストだということになっている。さらには瞬時に作品の全体を感受しえるには、作品は単純明快の方がいいということがまじめに論じられたりもしているわけですね。現代美術の作品が大きくなっていき、それに応じて展示空間も大きくなっていくというのもその意味で悪循環、ナンセンスという以外にありません。大きくても小さくても情報量は同じなわけだから。 |
|
つまりここで作品の現前性の効果――現実感は部屋自体が与える現前性――現実感に従属しているわけです。つまりは現代美術もレオナルド・ダ・ヴィンチの理屈どおりの空間の中で作品をつくっていることになる。マイケル・フリードという批評家はこんな現代美術の様態をシアトリカリティと批判したわけです。 |
|
反対にブルネレスキにしてもマサッチオにしても、そうした与件として与えられた物理的な空間とは、まったく離脱して作品は組織されうる、あるいはわれわれの知覚は組成しうることを探求していたわけですから、古い展示形式にしがみついた現代美術よりも、よほど彼らの作品の方が現代的なのも当然である、と言ったら言いすぎでしょうか。 |
|
※ この論文は長文のため、以下テーマごとに分割しました。続きは[NEXT]ボタンでご覧ください。
▼ 見ることの経験 <序>
▼ 透視図法とはなんだったか
▼ 変換装置としての知覚
▼「ブランカッチ礼拝堂」の謎解き
▲ ルネサンス再考
▼ ビザンチンの遠近法
▼ 絵画、両立しない複数の空間が出会う場

「ブランカッチ礼拝堂壁画レイヤー解析SWF」サンプル版 |
|