Critical Space Archive

岡崎乾二郎【見ることの経験】
変換装置としての知覚
 最終的に他人と共有されることを前提にされた経験というものは、問題にするには値しないと思うんですね。「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめることはできない」というウィトゲンシュタイン流の問いがありますが、この問いに関する限り偽の問いだと思います。そもそもわれわれは「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめることはできない」はずなのですから。これは絵を描く人なら誰でも知ってることです。こういう条件のもとで経験がいかに組み立てられるのか。つまりは他者と共有できないどころか、対応するところのいかなる対象ももたない経験、外在的な徴、外的な差異をいっさいもたない経験というものを、いかに組み立てることができるのかという‥‥。

……いわば経験を不在にしていく、そういう戦略ですね。

 たとえば左と右の認知という問題があります。左と右の差異は消去しえないが、しかしその差異を徴づけるいかなる外的な差異も存在しない。ゆえにとりあえず、これは主観的な形式というほかはないように思えます。けれど左と右の差異が識別されなければ、東と西の区別すら認知されることがないし、具体的に二つの手を合わせることから始まって、ものを操作していく時、この差異は主観によって解消できないばかりか、最後まで消去できない絶対的な差異として残り続けてしまうわけですね。
 カントの超越論的な統覚といわれるものは、いかなる外在的システムにも内在しえず、さらに主観に帰することもできない、こうした左と右の差異の認知問題から導き出されたものですが、ブルネレスキの発想こそ、まさにこんな差異にもとづいていたのだと思います。たとえば古典主義的な秩序では対称性が重んじられますが、この場合必ずそれを捉える(それを経験する)視点が前提とされてしまいます。けれどブルネレスキは対称性というものを、こうした超越的な視点に還元されるものではなく、ある対象の性質を別の位相にある対象へと変換する操作として、正確に捉えていた。これは彼の幾何学がすぐれて変換の術だったということでもあります。ブルネレスキの発想はこうして徹底的に操作的、今風にいうと行為遂行的であって、当然、知覚というものもスタティックで受動的なものではなく、能動的な変換群として考えていた。こうした一連の操作の過程でしか対象などは現れないし、視覚もない。静止し安定した外的な対象などないし、視点もないわけです。まして絵画の平面性などというものはない。
 じつは「経験の条件」を書いていて、けれど、この文章自体が、そうした変換装置として、具体的に働いてくれない限り、話にならないなあ、と絶えず考えていたんですね。ここでとりあげた作品が、今まで見えていたのとは、まったくちがうものとして見えてきてくれなければ意味がない。そうでなく単なる記述に終わってしまうのであれば、僕にとってあえて文章など書く意味もなく、作品をつくっていればいいわけですから。

……その意味ではまさにマサッチオの「ブランカッチ礼拝堂」、ピエロ・デッラ・フランチェスカの一連の作品やベネチア派のベリーニ、ティッツィアーノなどの作品分析が、この論文では重要な位置を占めています。これらの作品に覆いかぶさっているものをいったんはぎ取ってみる。そうするとこれまで言われてきたこととは別の側面が見えてくる。この論文のまさに真骨頂はそこにありますし、僕自身もそこのところに大変感銘を受けました。しかしそれにしても、これまであまり重要視されてこなかった「ブランカッチ礼拝堂」の壁画が、じつはとんでもなく重要な作品だということがわかってくるわけですが、いったいどういうきっかけでそんな大発見が生まれたのでしょうか。

 なんで気づいたのかということですね。素朴なことを言いますけれど、四角い平面が与えられて、それを全部塗り込めることで完成するという絵のイメージがあります。実際僕が子供の時は、背景に色を塗らないと怠けているように言われたものです。僕が子供に絵を教える場合は、だから描きたいところだけ描きなさいとしか言いません。背景を塗るというのは描くということではなくて、物体として絵画を完成させるということなんですね。背景に色を塗れと言ったとたんに、それまで視覚的にやっていた作業が、労働的な作業に転換されてしまうからです。そのとたんに絵は死んでしまう。先ほどの話に戻れば、背景を塗りつぶせというのは、絵画という客体的な形式が強いる要請ということになります。
 反対に背景を塗るのではなく、文字どおり描くのであれば、全部描きたいものとして捉えられないと描けないはずなんです。視覚は自分が見たいものだけを自動的にトリミングします。視覚には余白というものも、描き残しも当然ないわけですね。もちろん見えるものは常に変わっていくわけですが、その都度自分が見たいものに焦点を当てて、その部分が視野の全面を占める。たとえば空気が可能な限り澄んでいて、光が十分に与えられ、そして眼の筋力を十分に備えていた場合に、視覚は遠い近いの差異すら問題にしなくなってしまうでしょう。どんな遠くの小さなものからも、手前にある大きなものと同等の情報量を受け取ることができ、つまりは同じ大きさとして捉えうる。
 たとえば外の鮮やかな新緑に気づいた時、視覚全体は緑にいつか覆われてしまう。マチスなんか見ていて面白いのは、やはりそういうところがあるからです。たとえば花の黄色がふっと見えたとする。そうするとその黄色は視野全体にふあーと浸透していって、すべての見える黄色が連合しはじめ、やがてまるで小さな花の細部の黄色が、視野全体を覆い尽くしてしまう。こういうものの見方は日常では当たり前です。雑踏の中から自分の恋人だけを見つけ出すのと同じですね。あるいは視覚が見いだすものは空間内の特定の位置にだけ固定されているわけではないということです。視覚は自在に遠くにあるものを近くに引き寄せ、右のものを左に移し替える。「ブランカッチ礼拝堂」の構造に気づいたのも、素朴にただ、こんな見方であの壁画を見たからだけでしょう。普通に考えると画面の右にあるものが左にいったり、上にあるものが下にいったりということはありえない。絵の構図というものはすべてを平面上の座標に固定することにあるはずですから。けれどここでは、すべては特定の場所を離れ、唐突にそこに現れ、また他に移動していくように感じられたのですね。

※ この論文は長文のため、以下テーマごとに分割しました。続きは[NEXT]ボタンでご覧ください。
▼ 見ることの経験 <序>
▼ 透視図法とはなんだったか
▲ 変換装置としての知覚
▼「ブランカッチ礼拝堂」の謎解き
▼ ルネサンス再考
▼ ビザンチンの遠近法
▼ 絵画、両立しない複数の空間が出会う場

swf「ブランカッチ礼拝堂壁画レイヤー解析SWF」サンプル版

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