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■ ビザンチンの遠近法 |
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……「新日曜美術館」などの美術番組では、現代美術の紹介となるといまだに「とかく難解といわれる」という枕詞がつきますが、岡崎さんに言わせれば、古典絵画の方がよほど難解だと。 |
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抽象表現主義以降のどんなに大きな作品も、ただ大きさのちがいだけで、空間の捉え方はレオナルド・ダ・ヴィンチの考えを一歩も出ていないということです。展示空間と作品の一致などということは、絵画とはまったく無関係なことです。ケネス・クラークが、われわれは一枚の絵を見るのに5秒間しかつかっていないといいましたが、現代美術をまさにシンボリックに言い当てていると思う。そんなに深く鑑賞するものじゃないわけです、五秒で見れちゃうわけですからね。 |
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……確かに、インスタレーションのように平面から飛び出して空間全体を作品化したように、現代美術は空間性の拡張や解放に与したというようなディスクールがあります。しかし、そこで言われる空間性とか拡張という概念は、たかだか近代という限定された枠組みの中でのことにすぎないのかもしれません。フーコーの批判する近代のシステムとしてパノプティックな構造がありますが、その前提となる視覚空間そのものが岡崎さんにとっては問題であるということですね。 |
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現代美術のインスタレーションとフーコーが近代性という言葉だけで結び付くとは思えませんが、今、フーコーの名前が出て、視覚空間という言葉を使われましたので、そのことについて少しだけ言うとすると、ここで空間と呼ばれているのは、複数の主体が、互いにそれぞれの主体が書き込まれるだろう、あるいはそれぞれの主体が位置づけられ帰属させられるだろうところの共通の場所があると、互いに任じていることであると理解していいでしょうか。視線を交わすということの効果はそういうものである。互いに相手を自分の視野に包摂することを任じあい、最終的にはそれらすべてが一つの視野のもとに包摂されるだろうことが前提とされる。それを成立させるための超越的な視点というものの架空の座が必然的にそこで要請もされる。主体というのはこうして視るというよりも、視ることを通してじつは視られているという効果こそが産み出すものであると。そういう意味で理解するならば展覧会で作品を視るという経験はたしかに、そのしくみだといえるでしょうね。そこで観客は作品と対峙しているわけですが、この作品を視るという行為自体が実際に監視されることによって成り立っているわけですから。言い換えれば、この仕組みが内面化されているがゆえに観客は作品を観賞するのかもしれない。このしくみがあれば、実際にはその部屋に何もなくても、観客は作品があるものとして「何か」を観賞してしまうということです。観客という主体も、作品という客体も、こうした仕掛けの事後的な効果として産出されるものとしてあった。これはフリードがいったシアトリカリティの批判をパラフレーズしてみただけですが。ゆえに、それが十分に作品として、あるいは主体として統制されえているという確信もここから保証される。 |
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こうした展示空間がないとしたら、あるいは既存のジャンルの安定性というものがあてにならないとしたら、むしろその方が常態だと僕は思うのですが、どうなるのか、単に主体も知覚も、ばらばらに分散してしまうだけなのか。繰り返しになりますが、もちろんそうではない。外在的な超越性などあてにしなくても、十分やっていけるわけですね。ブルネレスキが教えてくれるように。 |
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……ただ、フーコーのバノプティックな構造というのはそれほど単純ではないですよね。パノプティックな構造の重要なところは、一つの空間に個々の視覚を集めるということよりも、一見個々の人間が自由に空間を私有できるようなしくみをつくっておいて、じつはその外部にいわば神のような視点を置いて、その視点から空間を統御する。岡崎さんの議論の論点も、そこにあるのではないでしょうか。 |
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いや、むしろ、そんな外部の超越的視点を前提にしないでやっていくということですね、超越的視点というのは象徴秩序ともいいかえられるわけですが、こうした外在的な点による統制ではなく、その内部こそを複数の次元に分裂させていく、つまりは超越論的と呼ばれるようなあり方ですね。 |
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たとえば、ビザンチンは逆遠近法のようなものを考えていて、すでに透視図法的なものの欠陥をのりこえる異なる空間の体制をつくり出していたといえないこともない。事実、東方教会の空間に入ると非常に安定した空間感覚が体験できます。J・J・ギブソンの言う包囲光と非常に近いことをビザンチンは考えていたと思うんです。つまり、個々の視覚というよりも、むしろ外側の視覚、自分の眼の外部から自分が視られているという感覚、つまりは光に包まれているという感覚をビザンチンは教会の内部につくり出した。これはパノプティコンのように神の視点を外部に想定することで空間を安定させるのとむしろ近いのかもしれない。いずれにせよ自分自身の身体はこの光の包囲によって、主体として初めて安定するわけですね。 |
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けれどブルネレスキの装置はこのいわば外的な仕掛けを私有化すること、内部化してしまうということをしてしまったのですね。そこに神の目はなく、単に自分が、その自分が視ていることを視ているだけです。こうやって主体を絶えず分裂させる――先ほどからの言い方でいえば変換させていくだけで、外部のいかなる超越的な点――象徴を、必要とすることもなく、十分やっていける。内側が無数の次元に裂開、押し広げられていくというか。 |
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※ この論文は長文のため、以下テーマごとに分割しました。続きは[NEXT]ボタンでご覧ください。
▼ 見ることの経験 <序>
▼ 透視図法とはなんだったか
▼ 変換装置としての知覚
▼「ブランカッチ礼拝堂」の謎解き
▼ ルネサンス再考
▲ ビザンチンの遠近法
▼ 絵画、両立しない複数の空間が出会う場

「ブランカッチ礼拝堂壁画レイヤー解析SWF」サンプル版 |
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