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大杉重男に同調して討議への参加を呼びかける/浅田彰
 大杉重男が『読書人』3月22日号で『批評空間』と Web Critique で展開されているスガ秀実と高橋源一郎の「論争」スガ秀実の『「帝国」の文学』を出発点とし、夏目漱石の大逆事件に対する態度をどう見るかを主要な論点とする)を取り上げ、スガ秀実と渡部直己の見解の相違にも触れながら、石原千秋や佐藤泉のようなアカデミックな研究者、そして渡部直己も含めた多くの論者がこの論争に加わるべきだと言っている。まさにその通りだし(私としては別の文脈でスガ秀実に盗作批判までされた小森陽一にもぜひ加わってもらいたい)、少なくとも『批評空間』や Web Critique はそのようなレスポンスを大いに歓迎する。ただ、大杉重男は柄谷行人と浅田彰にも応答を求めているのだが、私に関するかぎり、編集者として『批評空間』と Web Critique に高橋源一郎・スガ秀実両氏の寄稿を求めた立場上、とりあえず一方だけに与するわけにはいかないという当然の事情を確認しておく。
 もっとも、渡部直己流の天皇論を安直に応用した作品が最近よく見られることについては、私も確かに困った傾向だと思っている。大杉重男が例にあげた青山真治のヴィデオ映画『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』を私は見ていないが、かわりに青山真治の小説版『Helpless』について i-critique(3月12日配信)でほぼ次のように述べた。
 青山真治の『EUREKA』は疑いなく2001年の日本映画のベスト・ワンだった。しかし、i-critique でも予想した通り、多くの賞のベスト・ワンを独占したのは『GO』という時代遅れの映画であって、『EUREKA』はあまり話題に上らなかった。他方、監督自身が自作をノヴェライズした『ユリイカ』が、中上健次の巧みなパスティシュ以上でも以下でもないにもかかわらず、三島賞を受賞したのは、なんとも皮肉な結果と言うべきだろう。その青山真治が、1996年のデビュー作『Helpless』に基づく小説『Helpless』を『新潮』4月号に発表した。これは『ユリイカ』とはまた違った問題作である。第1部では、高校生の健次とヤクザの安男の物語が語られる。健次の父(組合運動家で、鼻歌のように歌っていた『インターナショナル』が息子にうつるあたりは面白い)は病院で自殺し、刑務所から仮出所した安男は組の「オヤジ」が自分を捨てて死んだことを信じられず改めて父殺しを実行しようとして無益な殺人に走る。昭和天皇の死んだ1989年の話だからといって父殺しの不可能性を主題にするというのは安易に過ぎるが、『ユリイカ』以上に流麗な中上健次スタイルは冒頭から読者を惹きつけてはなさない。さらに第2部では、物語の続きが、健次の同級生の苛められっ子でたまたま殺人現場に居合わせる羽目になった秋彦(『EUREKA』/『ユリイカ』にも登場する)の視点から語られ、事件がぐっと多角的に描き出されることになる。映画の小説化としてはここまでをもう少し延長しただけで十分だろう。だが、それ以上に興味深いのは第3部だ。そこでは、第1部と第2部が、園田秋彦名義で98年(映画は96年だが、89年と98年の対称性にこだわったのだろう)に出された小説の第1章と第3章にあたることが明かされ、今は専門学校の文芸コースの講師をしている作者の「私」が、ジャーナリストと名乗る男からその小説について取材を受けることになる。一転してきわめて即物的な文体で語られる二人の会話の中から、かつての事件に新しい光が当てられ、その後の経緯も明らかになるだろう。事件の後、健次は、父を捨てた母の新しい夫の会社に身を寄せ、ふとしたことから義理の弟を撲殺する――中上健次の『枯木灘』における秋幸のように。そして、1998年に仮出所し、会社を隠れ蓑にテロ集団を組織していると疑われているらしい……。この第3部によって、中上健次の流麗なパスティシュは暴力的に解体され、あらためて複雑怪奇なパロディとして立ち現れてくる。大胆な実験ではある。ただ、問題は、最後の方、とくに58頁で健次と幸徳秋水が重ねられるあたりから、「私」がスガ秀実や渡部直己(ここでは両者の差異はとくに問題ではない)らの中上健次論や天皇論の露骨な口真似を始めてしまうことだ。「私」がまさにそういう人物(たとえばスガ秀実はジャーナリスト専門学校の講師をしていたし、ちなみに青山真治は映画美学校で教えている)なのだからそれでいいのだと言ってしまえばおしまいだが、そのせいで小説全体がきわめて限定された読書サークル――たんに中上健次の読者というだけではない、ジャーナリスト専門学校や映画美学校、そして熊野大学などをコアとするきわめて狭いサークルの内輪話に収束してしまうのは、なんとも残念なことだった。言うまでもなく、作家は本質的に孤独でなければいけない。最近のジャーナリズムでの批評家の発言など傲然と無視し、ただ必要なことだけを自分の中にそっとしまいこんで、誰もが忘れた頃にまったく別の形で出してくるのでなければならない。青山真治が尊敬するジャン=リュック・ゴダールのように、そして他ならぬ中上健次のように。青山真治がそのことを知らないはずはないのだが。
 これは、しかし、青山真治だけの問題ではない。文学の世界を見ても、天皇について語ること(リテラルにであれメタフォリカルにであれ、直接的にであれ間接的にであれ)がかくも流行するというのは、いささか異常ではないだろうか。そこにすでに「俗情との結託」(順接にせよ逆接にせよ)が存在するのではないだろうか。大杉重男の強調するスガ秀実と渡部直己の差異に限らず、こうした問題一般について、さらに活発な議論が展開されることを期待したい。繰り返すが、『批評空間』や Web Critique はそのようなレスポンスを大いに歓迎する。

付記:
 i-critique は原則として毎週火曜に二点配信されており、この日は青山真治についてのコラムと金井美恵子についてのコラムが同時に配信された――量も倍くらいある前者の方が主であることは明らかだが。ところが、もっぱら後者における金井美恵子への揶揄について、少し前に金井美恵子が「浅田彰は映画的センスが悪い」という趣旨の発言をしたことへの「報復」だろうと複数の人たちから指摘されたのだ。「下司の勘繰り」と言うほかはない。そもそも私は自分に関する他人の発言につねに目を光らせるほど自意識過剰の暇人ではないし、現に金井美恵子の発言のことは知らなかった。偶然にも、これは青山真治との公開対談での発言らしく、その対談は『早稲田文学』5月号に掲載されると知らされたので、読んで反応すべきことがあると思えば反応するだろうが、その可能性は少ない。それに、私に映画的センスがないという発言は、ある意味で、私自身が繰り返し言ってきたこと――私はいわゆるシネフィルではなく、シネフィルの趣味の共同体からは落ちこぼれたところで映画を見ているということと、むしろ相通ずるのではないか。そういう意味で言われているのだとしたら、私は「浅田彰は映画的センスがない」という発言を肯定する。私がこの二つのささやかなコラムで言っているのは、シネフィルに代表されるような限定された興味と趣味の共同体の内部で、最新流行の「センスのいい映画の見方」(蓮實重彦経由の古い映画の見方も含めて)を、あるいは「天皇の語り方」を追いかけていこうとするスノビスムが、作品に負のバイアスをかけているということ、むしろ、作家はそういうスノッブであることをやめ、孤独な「蛮人」になるべきだということである。金井美恵子がこう言った、浅田彰がそれにこう反応した、などという根も葉もない下らぬ噂話にうつつをぬかすのは、閉ざされたスノッブ村の「土人」でしかない。

※ このテクストには以下レスポンスが付いています。
 ▼ 夏目漱石という「俗情」
    −スガ秀実と高橋源一郎の論争について
/大杉重男(2002/03/25)
  △ Re: 大杉重男に同調して討議への参加を呼びかける/浅田彰(2002/03/22)
   ▼ Re: 大杉重男と浅田彰の「呼びかけ」に接して/渡部直己(2002/03/28)
    ▼ Re: 辻仁成など知るか―渡部氏への応答/大杉重男(2002/05/11)
  ▼ Re: 編集部への返事/佐藤泉(2002/04/25)

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