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批評空間編集部から、夏目漱石と大逆事件のかかわりについて論争が行なわれているとのご連絡をいただいた。私の以前の職場に届いていた手紙が転送されてきたのが昨日のこと、そして中にあった論争のプリントをみると、アカデミックな漱石研究者という資格で論争に加わるようにとのことで、これほど宛先違いが累積するのは全く批評空間だ。私は夏目漱石よりも夏目漱石が中心化されてきた近代文学史について史学史的な関心をもってきたので、すると正しい名宛人ではないかもしれないが、以前 氏の『「帝国」の文学』の書評をさせていただいた経緯があるため、ご連絡いただいたものと理解した。同封資料を読むと、浅田彰氏が、一連の論議を論議として成立させているサークルの狭さを考えたほうがいいと書いてある。同感だ。だが、同時に氏は言論の場の確保というようなほとんど普遍的な言葉使いで漱石研究者も論争に参加せよといっている。言論で中上健次の使徒を増やすことなのか、なんのことやらわからない。私は批評空間のいい読者ではない。必要部分を読むだけなので、この雑文を文芸雑誌とは思っていなかったし、批評空間に外がないとも思っていなかった。ともかく送っていただいたプリントによると、 氏は『「帝国」の文学』の書評を書いた漱石研究者が、漱石と大逆事件の関わりについて触れていないのはいかなる理由によるものか、というのだが、触れていないのはそれだけではない。 氏の精緻な読解の当否以前に、これが仮に天皇論だとしてこうした天皇論が70、80年代ではなくて今刊行されたことの意味を考えるのが優先課題と判断したからだ。論争の過程で 氏の著者が漱石論にまで切り縮められたら、結局この本の日付を抹消することになりはしないか他事ながら心配だ。かつて80年代の文芸評論が日本は前近代的な共同体社会だと書いていたところ、天皇制は歴史を持たない日本文化で日本型雇用慣行も日本文壇制度もやはり天皇制だった。貴種の放浪と血みどろの血縁殺しと近親相姦の物語も生みだす聖と賤の両極構造はもちろん文芸評論の天皇制が好んで語ったテーマだが、この磁場にあっての物語批判で、だからその批判は当時左翼的機能を果たしえた。論座的というかもしれない。だが、90年代前後から文芸評論の外で書かれた天皇論は天皇制がまぎれもなく近代権力であることを強調しはじめた。タカシ・フジタニ『天皇のページェント』、多木浩二の『天皇の肖像』、そのほか最近の原武史など、御真影や行啓幸等の儀礼に関心を向けた研究者は、天皇制を近代の日付のついた制作品と位置づけている。話がそれるが、夏目漱石が国民作家だという大前提を疑うことなく夏目漱石を論じていた文学研究の枠組みも、これと並行して作家たちがいつどのような力学のなかで国民作家になっていったかを検証する方向へとシフトした。 氏は「漱石研究者」になにか幻想をもっているみたいだが、臣・漱石と 氏に言われて深く傷つく人なんて、そういえばこのところほとんど見かけない。以上参考までに。で、話を戻すと、いまや企業経営者も保守政党もかつての日本文化論を取り下げて構造改革をうたい、かつての文芸評論と同様日本的システムを批判しはじめるのだが、これは文芸評論にとっての危機であろう。天皇論のこうした旋回によって、歴史を持たない物語の源泉という批判対象が失われるのだから。すると 文学史のハイライトは氏の主観はどうあれやはり菅野すが子だ。天皇制の不合理を衝く幸徳秋水の合理的な姿勢との対比において、 氏は天皇制の理不尽に照準した菅野の批判を評価する。鼻の整形に失敗した菅野はスゴいという 氏の解釈も、他の解釈とちがって落としどころが見えるからこれはなんとなく分かった。 氏自身がそう意識して書いたのかは知らないが、まともな批判をすりぬける天皇という氏の論点は、天皇論の変化を文脈とした文芸批評的主張である。と、そう読まざるをえなかった。天皇制、さらにナショナリズム一般はたしかに合理的ではない部分に作用する。 氏の指摘も、合理的な天皇論に対し注意をうながすという動機であれば聞くべきものだと思い、書評ではその点を評価した。だが、あの本は臣・漱石論だと 氏が言い出すのなら、もしや氏の動機も純粋に文芸的なものだったのではないかと疑う必要が生じる。大逆事件は現在の天皇制を潜在的に支えている恐怖感に関わる点で重要である。だが天皇をめぐっていつまでも文芸評論していたい人たちの論争だったら、サークル構成員以外のだれもそんな土俵に乗るはずはない。夏目漱石読解が誤っているなら研究者はちゃんとそう言えばいいと 氏は書いておられるが、これは誤ったり正しかったりする類の発話ではない。タラコのうちで生魚になるのは百万のうち数匹、自然は「残酷な母」であるという漱石の言葉は天皇のことを言っている。こういう読解規則を共有している人たちにとって論争は可能なのだろうが、これは精神分析ではなくどうも「ジプシー夢占い」だ。夏目漱石が影響力をもったジャーナリストだった以上、大逆事件に直接言及しないのは無責任だということも、この作家が天皇を敬愛していたことも、夢占いなしで論証できるし、 氏の著者はすでにその材料をそろえていく。氏にとって必要なのはそこに残酷な父や父殺しという評論用語を導入することだ。導入された後の論の当否に言及するにはこうした論の構えを認めなければならず、認めている人たちにとってこの論争は論争たりえるだろう。が氏のサークルに対しては、天皇と文学なんて問題はないという批判もあるようだし、天皇と言っていればなんであれ重大問題を扱った気になれるのは気楽なことだと嘆息する批評家も見かけた。私は現在の文芸評論マップにあまり注意していないが、文学批評の全体が文芸評論家サークルに同意しているというわけではないらしい。といって私は天皇と文学という文芸評論の伝統的テーマに全く関心がないのではない。最近戦後評論を読み直していることもあって、むしろとても関心がある。同時代の文芸評論を含めてこれを「研究対象」と呼ぶのはまるで人類学者だが、戦後天皇制の下に生活している自身の位置を折り込まずには文学批評の歴史も読み直せないと思っている。もちろんそれは天皇制のふところ深く入り込んでそこから三回転反ひねりといった文芸評論とは別の界でのことである。 |
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編集部からは、ご不快かと思うが返事を、と配慮くださったが、不快ではなくただもうこわい。以前から、読むにたえない、馬鹿である、といった文芸評論用語が不思議だったのだが、いまや不思議どころではなくなった。すっかり遅くなって編集部には申し訳なかったが、お手紙は落手しましたというお返事をさせていただくしだいだ。 |
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【編集部付記】
上文は、編集部からの依頼に答え、2002年4月25日に寄せて頂いたテキストです。 |
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※ このテクストには以下レスポンスが付いています。
▼ 夏目漱石という「俗情」
− 秀実と高橋源一郎の論争について/大杉重男(2002/03/25)
▼ Re: 大杉重男に同調して討議への参加を呼びかける/浅田彰(2002/03/22)
▼ Re: 大杉重男と浅田彰の「呼びかけ」に接して/渡部直己(2002/03/28)
▼ Re: 辻仁成など知るか―渡部氏への応答/大杉重男(2002/05/11)
△ Re: 編集部への返事/佐藤泉(2002/04/25)
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