丸山真男とアソシエーショニズム (2006)

 
1960年代以来、丸山真男といえば、西洋に比べて日本の前近代性を批判する知識人、つまり、近代主義者という否定的なイメージができあがっていた。私もその通念から自由ではなかった。初めて丸山について真剣に考えるようになったのは、1984年ごろである。それは日本でポストモダニズムの現象が注目を浴びた時期である。それは先ず、「現代思想ブーム」というかたちであらわれた。私自身がその代表者の一人と目されていたが、私はそれをはなはだ不本意に感じた。私はそれまで「近代批判」の仕事をしてきたが、それとこのようなポストモダニズムとはまるで違うものだったからである。
このとき、私はそれまで取り組んできた仕事がまちがいではないが、どこか的が外れていると感じた。私が考えていた「近代批判」はつきつめると、自発的な主体(主観)に対する批判ということになる。各人は自発的な意志をもつと思っているが、それは「他人の欲望」によって媒介された結果にすぎない。別のいいかたでいえば、主体は、無意識の構造の結果(効果)にすぎない。また、認識的な主観は自由ではなく、すでに言語的な制度(システム)の中で規定されている。
これは、自由な個人主体というフィクションから出発するブルジョア的思想に対する批判であった。と同時に、それは、ブルジョア社会を否定するような知識人の権力(知の権力)への批判でもあった。すなわち、大衆を啓蒙し指導するという知識人=前衛党という主体への批判である。このような主体批判は、主体の否定ではない。その逆に、知の権力に従属しないような個々の主体とそのアソシアティヴな活動を創造することを意味していた。それは、1968年の五月革命に象徴されるような運動である。実際、フランスで始まった構造主義およびポスト構造主義は、旧来の左翼を否定する新たな左翼の運動を背景にしていたのである。
しかし、あとからふりかえると、こうしたポスト構造主義あるいは知のディコンストラクションがラディカルな意義をもちえた時期は限られていた。それはまもなく、資本主義的な発展がもたらした消費社会・情報社会の進行に追いぬかれてしまったのである。つまり、近代批判の言説は、資本主義そのものが促進するディコンストラクションにのみこまれ、同化されていった。ポストモダニズムという言葉が流行したとき、すでにその内実はそのようなものだった。それはどこでも先進資本主義国に生じた現象である。つまり、ポストモダニズムはほとんどポスト産業資本主義と同義となってしまったのだ。そうなると、日本では、ポストモダニズムが戦前の「近代の超克」の議論と同工異曲になってしまうのも当然であった。たとえば、「主体批判」は、西洋的な主観二元論に対して東洋的な「主客合一」を立てるという類の言説と同一視されたのである。
日本のポストモダニズムは、世界中を席巻したバブル経済もあって、海外の注目を集めた。私自身も参加したのだが、「ポストモダニズムと日本」という国際会議が開かれたほどである。なぜ注目されたか?西洋の社会は、消費社会といおうと、ポストモダンといおうと、そのような言説が示すほど急激に変わったわけではない。そのような変化を斥けるものが確固としてあった。だからこそ、そこでは、わずかの変化でさえも画期的に見えたのである。しかるに、日本では、このような変化は急激かつ全面的に進行した。だから、その「先進性」が世界的に目立ったのである。
だが、日本の社会が、それまで前近代的な側面が批判されてきたというのに、突然、ポストモダンの先頭を切っているように見えるというのは、どういうことなのか。日本のポストモダンは、むしろ近代の欠落の結果ではないのか。では、こんなところで近代批判をする意味があるのか。1984年に、私はそのような疑問を抱くようになった。私は日本の近代についていろいろ考えてきたつもりだったが、何も考えてはいなかった、と思った。遅まきながら、そのとき、そのような問題に丸山真男が取り組んでいたことに初めて気づいたのである。というより、私は丸山が立っていた場所に気づいた。それは、日本でものを考えようとしたら避けることのできない場所であった。
 
 
1984年に顕在化した日本的ポストモダニズムを別の観点から見てみよう。当時「現代思想」のブームは、ニュー・アカデミズムとも呼ばれた。それまでの知識人と大衆という二項対立や階層性を脱構築する新たな知識人の登場が注目されたわけである。だが、それを新たな現象というべきではない。そもそも、日本に、大衆の動向から遊離した知識人の優位などあったためしがないのだ。しかるに、抽象的な観念にもとづいて大衆を見下し現実から遊離しているというような理由で、知識人を批判する言説はつねに横行してきた。知識人を批判する者こそ典型的な知識人だ、といったほうがいいくらいである。たとえば、日本には「象牙の塔」のようなものは一度もなかった。むしろ、つねに象牙の塔に対する批判があり、それが勝利してきたのである。(注1)
日本における知識人と大衆の乖離は、西洋やアジアの諸国に比べれば少ない。その原因の一つは、日本の社会には案外に社会的モビリティが多いということにある。戦国時代はいうまでもないが、徳川時代でも養子縁組を使った階級移動が多い。だから、良い家柄といっても、ほとんどの場合、四代前以上の先祖はオブスキュアなのである。だから、日本人は、現在不遇のため、過去の家柄以外にアイデンティティを確保できないような人は別として、四代前以上の先祖について無頓着である。このような事実自体、社会的モビリティの甚だしさを示している。日本人はそのことを恥じる必要はまったくない。ただ、このような社会に、支配階級や知識階級が長年にわたって大衆から隔絶しているような社会で妥当している議論をそのまま持ちこむことは、しばしば滑稽な自己欺瞞となる。
ヨーロッパやアジア諸国では、知識人は概ね、貴族・地主・ブルジョアなどの支配階級の出身である。その点では、社会的モビリティがあり大衆社会化が進んでいるように見えるアメリカ合衆国でも、実は同じようなものだ。東部アイヴィー・リーグの大学に属する知識人の大半は、いわば世襲的である。彼らは根本的に、大衆(下層階級)から隔たっている。彼らは当然のように左翼またはリベラルである。こういうところには、大衆文化やサブカルチャーを重視する人たちが出てくる必然があるだろう。もっとも、それによって知識人と大衆のギャップが消えることはありえない。
だが、日本に、大衆文化とそれほど隔絶したような知識人がいるだろうか。たとえば、現在でも、私の知っているアメリカの知識人はテレビもろくに見ないし、スポーツについて無知であるが、日本の知識人はそうではない(注2)。1960年代から大学生が公然と漫画を読んでいた。このような場所で、わざわざ大衆文化をもち上げることに批評的な意味があるだろうか。
たとえば、鶴見俊輔はアメリカでの経験から学んで、「思想の科学」という名の下に、大衆的な経験と知恵を掘り起こす仕事をしたが、日本でそれが価値転倒となりうると思うのは幻想である。実際、そのような仕事は、日本的ポストモダニズムの中で簡単に受け入れられた。丸山真男は鶴見俊輔に対して、つぎのようにいっている。《あなたの判断は実に、知識人主義ですよ。〔…〕私はあなたの哲学は大いに信用しますよ。だけど前からあなたの日常感覚は信用しないんだ。あなたの感覚は、非常に一般の日本人から浮いてるから。育った生活環境からいっても私の方がはるかにドロドロした「前近代的」なものなんです()(前掲「語りつぐ戦後史、普遍的原理の立場」、『思想の科学』1967年5月号所収p117)
丸山の批判は的確である。しかし、鶴見俊輔がだめなのは、知識人を批判して、大衆的な存在や経験を高く評価したことではない。そのことの批評性がたちまち無効化されてしまうような状況に対して、自らのスタンスを変えることができないということである。そのため、彼の議論は、日本的ポストモダニズムに抵抗することなく、飲み込まれてしまうほかなかった。
鶴見は抽象的な思想あるいは原理の支配を批判する。しかし、西洋あるいはアジアでは、そのような批判が必要且つ有効であろうが、日本では、話はそう簡単ではない。知識人が支配したことがないし、思想や原理が支配したことがないからだ。ゆえに、簡単にそれを「漢意」(本居宣長)として斥けることができる。むしろ、日本に必要なのは「思想」あるいは「原理」なのだ。丸山はつぎのように述べている。
 
日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。
イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あそこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。
人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(針生一郎との対談『丸山座談5』p138-139
 
このように、丸山真男は一方で、経験論的でリアリスティックな態度を説きながら、他方で、その反対に、思想や原理の優位を説いている。丸山は、どちらが優位であるとか、あるいは、それらの「総合」が必要だといわない。ただ、自分の属する文脈が思想を軽視するようなところでなら、思想を重視するだけのことである。「人を見て法を説け」というのは、そのことだ。だが、このような態度はわかりやすいものではない。というより、むしろ誤解されるに決まっている。実際、丸山に関しては、思想や原理の必要を説く面だけが、印象に残る。その結果、鶴見俊輔こそ「知識人主義」の典型であるのに、逆に、丸山真男がその典型として扱われることになる。
 
 
丸山真男のこうした逆説的なスタンスと機敏なフットワークは、一つの立場から理論体系を築くような学者にはありえないものである。その点で、日本で最も丸山に近い人は、小林秀雄であったと私は思う。たとえば、トルストイが家出して野垂れ死にしたという報道に際して、正宗白鳥は、トルストイの抽象的な思想は結局、実生活に敗北せざるをえなかったという趣旨のことを述べた。それに対して、小林は激烈に反論した。《あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想といふものに何んの力があるか》(「作家の顔」)。これは、丸山真男がいったのとまったくおなじことである。
こうした小林秀雄の発言が、マルクス主義運動が弾圧され、プロレタリア文学派の転向があいついだ時期になされたことに注意を払うべきである。つまり、抽象的な「思想」が「実生活」に屈服した時期に。それまで、小林はマルクス主義の文学論に批判的であったが、ここにいたって、急激にスタンスを変えた。マルクス主義者自身が自己批判をはじめたときに、彼は、日本で思想が個々人をこえた「絶対的な普遍的な姿で」存在したのは、マルクス主義だけであるといったのである。それに比べれば、マルクス主義文学論が「理論的」すぎるとか「公式主義」的であるとかいうようなことはどうでもよい、と。
 
理論は本來公式的なものである。思想は普遍的な性格を持ってゐない時、社会に勢力をかち得る事は出來ないのである。この性格を信じたからこそ彼等(マルクス主義文学者)は生きたのだ。この本来の性格を持った思想といふわが文壇空前の輸入品を一手に引受けて、彼等の得たところはまことに貴重であって、これも公式主義がどうのかうのといふ檬な詰らぬ問題ではないのである。
成る程彼等の作品には、後世に残る檬な傑作は一つもなかったかも知れない、又彼等の小説に多く登場したものは架空的人間の群れだったかも知れない。併しこれは思想によって歪曲され、理論によって誇張された結果であって、決して個人的趣味による失敗乃至は成功の結果ではないのであった。
わが國の自然主義小説はブルジョア文學といふより封建主義的文學であり、西洋の自然主義文學の一流品が、その限界に時代性を持ってゐたに反して、わが國の私小説の傑作は個人の明瞭な顔立ちを示してゐる。彼等が抹殺したものはこの顔立ちであった。思想の力による純化がマルクシズム文學全般の仕事の上に現れてみる事を誰が否定し得ようか。彼等が思想の力によって文士氣質なるものを征服した事に比べれば、作中人物の趣味や癖が生き生きと描けなかった無力なぞは大した事ではないのである。 (「私小説論」『小林秀雄全集』第三巻p132)
 
丸山真男は、小林秀雄の、ほぼ同趣旨の、別の逆説的な発言に対して、「まことに鮮やかな指摘だ」と述べている(『日本の思想』岩波新書p78)。小林秀雄は、それまで思想や原理を「様々なる意匠」として批判してきたが、ここではそれを肯定している。では、このような判断の移動をどう名づければよいのか。1984年の時点で、私はそれを「批評」と呼んだ。もちろん、そう呼んだのは、小林秀雄が批評家であったからではない。そのとき、私は「ポストモダニズムと批評」という論文を書き、その中でつぎのように述べた。
 
批評家といわれる者がすべて《批評》的であったわけではけっしてない。《批評》は、方法や理論ではなく、一つのシステム(言説空間)に属すると同時に属さない、矛盾にみちた危うい在り方のようなものだ、といってもいい。だが、これは“はぐらかし”とは似て非なるものだ。というのは、それは当人の身を引き裂かずにいないからである。もちろんデリダの脱構築が、アルジェリア出身のユダヤ人がフランスの「知」のなかでとったぎりぎりの戦略だとすれば、まさにそれは《批評》である。
が、そのようなものを“習得”することができようか。なるほど哲学者はそのようなものを新しい動向として習得することができるし、日本の哲学者はいつもそうしてきたのだ。もし日本で(少数の)批評家や作家が、それら哲学者や社会科学者と比べて、むしろ“内容”的に貧しいにもかかわらず、ある優越性をもちえた(と私は思う)としたら、その理由はいうまでもない。《批評》が方法や理論ではなく、生きられるほかないものだからである。(『差異としての場所』講談社学術文庫)
 
私は丸山真男の仕事をそのような《批評》として見たいと思う。日本の学者の中に、丸山のような批評家はいなかった。しかし、文芸批評を専門とする者に批評家がいたわけではない。そもそも、小林秀雄自身がそれを放棄したのである。
1937年日中戦争の勃発後、小林秀雄は原理を重視する態度から、対象は鑑賞(セオリー)ではなく、実践的な没入によってのみ感受できるというベルグソンの哲学に向かった。実際には、それは理論的・分析的態度をさかしげな「漢意」とみなす本居宣長に帰着することであった。つまり、思想が意匠にすぎないような日本の文脈に抵抗するかわりに、まさにそこに没入してしまったのである。丸山真男はそれを「実感信仰」と名づけて痛烈に批判した。しかし、ある意味で、丸山こそ、小林秀雄がその批評性をうしなったのちに、それを継続してきた唯一の人なのである。
このような《批評》は、日本に固有の問題ではない。そもそも、それはカントの「批判」とともに出てきた問題なのである。たとえば、小林秀雄や丸山真男がいうことは、古典哲学におきかえれば、つぎのようになるだろう。思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。
マルクスについても同じことがいえる。たとえば、マルクスは、ドイツにおいてヘーゲルの観念論を批判したが、経験論的な思想が支配するイギリスにおいては、「ヘーゲルの弟子」であることを公言した。ところが、カントに関しても、マルクスに関しても、それを一つの立場や体系に集約させてしまう人たちが、批判哲学やマルクス主義を形成したのである。そこでは、彼らの《批評》(トランスクリティーク)が看過されたのはいうまでもない。
丸山真男は新カント派ではなく、カントの「批判」から影響を受けたといっている。それは、カントの批評性を見いだすことにほかならない。だが、それがカントの影響によるというのは当たらない。むしろ丸山自身の批評性がそのようなカントを発見させたのである。
 
 
 
2003年、イラク戦争があったとき、私はアメリカの西海岸にいたのだが、何人かの知り合いから、アメリカでは反動化がすごいらしいが大丈夫かというような問い合わせがあった。しかし、私の周りでは連日街頭のデモがあった。私はむしろ日本こそ大丈夫なのかと心配になった。ヨーロッパ各国はいうまでもなく、韓国やインドでも巨大な抗議デモがあったというのに、日本にはほとんどなかったからである。日本が戦後とっていた方針を捨てて、はじめて海外に派兵したということが注目を集めていた時期に、街頭での反対運動がほとんどないということは、外から見れば、不気味であった。
街頭でのデモ(示威行進)は古い、という人たちがいる。また、インターネットなどの普及で、さまざまな抗議の手段が増えたという人たちがいる。しかし、市街戦や武装デモは古いが、古典的なデモは今も、西洋やアジアで存在している。いかに非能率的に見えようと、それはやはり効果がある。というより、丸山真男や久野収が強調したように、民主主義は代表議会制度だけでは機能しない。デモのような直接行動が不可欠なのである。
ところが、日本にはデモがない。それはインターネットなどのせいではない。たとえば、韓国ではインターネットはデモの宣伝や連絡手段として役立っているが、日本ではむしろその逆である。人々はウェブ上に意見を書き込んだだけで、すでに何か行動した気になっているのである。(注3)日本人のこうした振る舞いは、昨日今日の話ではない。たとえば、和辻哲郎は昭和初期に書いている。
 
共産党の示威運動の日に一つの窓から赤旗がつるされ、国粋党の示威運動の日に隣の窓から帝国旗がつるされるというような明白な態度決定の表示、あるいは示威運動に際して常に喜んで一兵卒として参与することを公共人としての義務とするごとき覚悟、それらはデモクラシーに欠くべからざるものである。しかるに日本では、民衆の間にかかる関心が存しない。そうして政治はただ支配欲に動く人の専門の職業に化した。ことに著しいことは、無産大衆の運動と呼ばれているものが、ただ「指導者」たちの群れの運動であって指導せられるものをほとんどあるいはまれにしか含んでいないという珍しい現象である。もとよりそれはこの運動が空虚であることを示すのではない、しかし日本の民衆があたかもその公園を荒らす時の態度に示しているように、公共的なるものを「よそのもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることにのみかかっているのであることは、ここに明らかに示されていると思う。(『風土』岩波書店p168
 
 和辻が指摘したような現象は、その後もさほど変わっていない。1960年の安保闘争において、市民によるデモが連日、大規模に行われた。このときは全学連のデモも目立たないほどであった。丸山真男や久野収はこのことに感銘を受け、そこに日本における市民主義の定着を見た。しかし、それは真の「定着」ではなかった。以後、このようなデモはほとんど起こらなくなったのである。和辻の言葉でいえば、「指導者たちの群れの運動」しかなくなってしまった。60年代半ば以来、新左翼の過激なデモが、ありふれた市民のデモを抑圧してしまったという面もある。だが、ありふれた市民のデモが存在しないからこそ、デモが過激化したというべきだろう。そして、日本の外では消滅した旧「新左翼」の過激派が残っているのは、むしろそのためである。
和辻のいうことがあてはまるのは、デモに関してだけではない。特に外国で目立つことだが、日本人はほとんど政治的意見や思想的な意見をもたない。ただ、話題がインテリアとかファッションのような「家の内部の生活をより豊富にし得ること」になると、異様なほどに洗練を示し、且つ雄弁になる。また、公共的な問題には無関心であるのに、ゴミ焼却場設置や食品汚染のように「家の内部」に侵入するような問題が生じると、突然激昂して、過激な反対運動を行う。
こうした事情は、昭和初期から少しも変わっていないようである。つまり、これは、資本主義の発展による変化、たとえば、大衆社会、消費社会、情報社会といったものの結果だとはいいがたい。かりにそうだとしても、そのような様相をどこよりも顕著に示すのが日本なのだ。丸山真男がいうように、日本は「その意味では大衆社会のいちばんの先進国」なのである。
和辻はその原因をつぎのように考えている。西洋においては、個人が城壁によって外界から区切られた都市共同体の中ではぐくまれるのに対して、日本では、個人は「家」の中にあり、公共性に対して無関心である。西洋においては、家の中でも私的ではない。私的なのは部屋だけであって、廊下は公的である。ゆえに、部屋に鍵がかけられる。それに対して、日本人は、垣根に囲まれた家の中において住む。
 
城壁の内部においては、人々は共同の敵に対して団結し、共同の力をもっておのれが生命を護った。共同を危うくすることは隣人のみならずおのが生存をも危うくすることであった。そこで共同が生活の基調としてそのあらゆる生活の仕方を規定した。義務の意識はあらゆる道徳的意識の最も前面に立つものとなった。とともに、個人を埋没しようとするこの共同が強く個人性を覚醒させ、個人の権利はその義務の半面として同じく意識の前面に立つに至った。だから「城壁」と「鍵」とは、この生活様式の象徴である。(『風土』岩波書店p165
 
「家」を守る日本人にとっては領主が誰に代わろうとも、ただ彼の家を脅やかさない限り痛痒を感じない問題であった。よしまた脅やかされても、その脅威は忍従によって防ぎ得るものであった。すなわちいかに奴隷的な労働を強いられても、それは彼から「家」の内部におけるへだてなき生活をさえ奪い去るごときものではなかった。それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって争闘的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの無関心を伴なった忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるのである。議員の選挙がそこで初めて意義を持ち得るのみならず、総じて民衆の「輿論」なるものがそこに初めて存立する。(同P167-8
 
和辻が、日本人が公共的なものに無関心であり、その意味で「私的」であるというのは、鋭い指摘である。もちろん、「城壁」や「家」のようなものが、個人の在り方の違いをもたらしたのではない。個人の在り方の違いがそのような差異をもたらしたのである。そして、個人の在り方は、個人と社会との関係の歴史的な在り方によって決まっている。だが、そもそも和辻のような認識がなければ、そのような歴史そのものが見えてこないのである。そして、丸山真男が試みたのは、それを別の観点から究明することであった。
 
 
丸山真男は、伝統的な社会(共同体)から個人が析出される(individuation のパターンを考察した。日本の事例は、たとえば、テンニースのように、ゲマインシャフトに対するゲゼルシャフトとしては説明できないし、さらにリースマンのように、伝統志向に対して、内部志向と他人志向という二タイプをもってくることでも理解できない。そこで、丸山は、近代化とともに生じる個人の社会に対する態度を、結社形成的associativeと非結社形成的dissociativeというタテ軸と、政治的権威に対する求心的なcentripetal態度と遠心的なcentrifugalな態度というヨコ軸による座標において分析したのである。それは図のように四つのタイプになる。(別掲図)
 
 
自立化individualization  民主化 democratization
私化 privatization 原子化 atomization
 
簡単に説明すると、民主化した個人のタイプ(D)は集団的な政治活動に参加するタイプである。自立化した個人のタイプ(I)は、そこから自立するが、同時に、結社形成的である。民主化タイプが中央権力を通じる改革を志向するのに対して、自立化タイプは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。つぎに、私化した個人のタイプ(P)は、民主化タイプの正反対である。すなわち、Pは、政治活動の挫折から、それを拒否して私的な世界にひきこもるタイプである。さらに、Pと原子化したタイプ(A)の関係はつぎのようになる。
 
私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p385
 
つまり、私化した個人のタイプは政治参加しないが、原子化した個人のタイプは、「過政治化と完全な無関心」の間を往復する。
この四つのタイプについて、丸山は「ある人間が、四つのうちのある型に全面的かつ純粋に属し、生涯を通じて変わらないということは稀である」という。そして、それは社会全体についてもいえる。各社会は、こうした諸タイプの分布によって構成され、またその分布の度合いは文化的社会的条件によって異なるのである。丸山によれば、一般的に、近代化が内発的でゆっくり生じる場合、Iの分布が多くなり、他方、後進国の近代化においては、とAの分布が多くなる。
このように見ると、近代日本に特徴的なことは、伝統社会が残っているにもかかわらず、私化と原子化の「早発的な登場」があったこと、また、これらのタイプが圧倒的に多かったことである。といっても、丸山がそういうのは、一般的な図式にもとづいて日本のケースを見た結果ではない。その逆に、彼は日本の特異性から出発し、それを例外とせずに扱うことができるような普遍的な図式(シェーマ)を考案したのである。この論文はもともと英語で書かれた。それは、日本を一ケースとするかたちをとりながら、普遍的な理論を目指している。事実、この図式は一般的に近代について考えようとするときに不可欠である。たとえば、「近代的個人」や「近代的自我」というような言葉がしばしば使われるが、その意味はあいまいで、議論を混乱させるだけである。
ここで、先に和辻が考察したことを丸山の図式に基づいて見直すと、「城壁」の中で公共性のための共同的闘争と同時に生じてくる個人とは、自立化する個人のタイプ(I)であり、「家」の中にあってその外に無関心であるような個人とは、私化する個人のタイプ(P)なのである。では、日本で(Iが弱く(Pが強い理由は何か。それは、和辻のように「モンスーン風土の特殊形態」という観点から説明することはできない。
実際、和辻は、この違いを、ヨーロッパの自由都市がどのように形成されたかという観点から見ている。しかも、ヨーロッパだけを基準にしているのではない。彼はそれを中国との比較からも考察している。《シナの民衆は国家の力を借りることなくただ同郷団体の活用によってこの広範囲の交易を巧みに処理して行った。従って無政府的な性格はこの経済的統一の邪魔にはならなかったのである。シナの国家と言われるものはこういう民衆の上にのっている官僚組織なのであって、国民の国家的組織ではなかった》(「風土」)。いいかえれば、このような社会では、自立化する個人のタイプはあっても、私化する個人のタイプは少ない。
 一方、丸山は日本において、自立化する個人のタイプ(I)が育たなかった原因を、つぎのように指摘している。
 
日本における統一国家の形成と資本の本源的蓄積の強行が、国際的圧力に急速に対処し「とつ国におとらぬ国」になすために驚くべき超速度で行われ、それがそのまま息つく暇もない近代化――末端の行政村に至るまでの官僚制支配の貫徹と、軽工業及び巨大軍需工業を機軸とする産業革命の遂行――にひきつがれていったことはのべるまでもないが、その社会的秘密の一つは、自主的特権に依拠する封建的=身分的中間勢力の抵抗の脆さであつた。明治政府が帝国議会開設にさきだって華族制度をあらためヨーロッパに見られたような社会的栄誉をになう強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院など、国家権力にたいする社会的なバリケードがいかに本来脆弱であったかがわかる。前述した「立身出世」の社会的流動性がきわめて早期に成立したのはそのためである。政治・経済・文化あらゆる面で近代日本は成り上り社会であり(支配層自身が多く成り上り、構成されていた)、民主化をともなわぬ「大衆化」現象もテクノロジーの普及とともに比較的早くから顕著になった。(『日本の思想』岩波新書p44-45
 
 これは、和辻が「城壁」というメタファーで語ろうとした問題である。つまり、「城壁」とは、「強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権をもつ寺院などの国家権力にたいする社会的なバリケード」を意味するのである。このような社会的次元の抵抗がなかったために、日本では、統一国家の形成が速く、産業化も速かった。中国では、西洋とは違った意味で、こうした「社会的なバリケード」が強く、それが国民国家の形成と産業資本主義の発展を遅らせた。(注4)一方、そのようなバリケードがなかった日本では、急速な資本主義化が進行した。しかし、それを可能にしたのは、日本に国家とは異なる「社会」という次元が無化されていたことである。
 それはまた、日本では、自立化する個人のタイプが存在しにくいということでもある。このような個人がなくても、あるいは、むしろない方が、産業資本主義の発展がスムーズになされることができる。そして、その中では、人々は国家に対抗しようとすれば、せいぜい「私化」あるいは「原子化」によってそうするほかない。また、このようなところで、資本主義を否定すれば、それは「社会主義」ではなく、「国家主義」に帰結するほかない。なぜなら、そこには、自発的結社(アソシエーション)にもとづく「社会」の次元が存在しないからである。
 
 
近代日本において、自立化する個人のタイプ(I)ではなく私化する個人のタイプ(Pの比率が圧倒的に多いということを、別の視点から考えてみよう。この問題が典型的にあらわれるのは、近代文学においてである。たとえば、明治十年代の自由民権運動は、基本的に、徳川時代にも保持された農村の自治的コンミューンに依拠するものであった。しかし、それが壊滅させられたとき、人々は政治的現実を斥ける「私化」に向かった。具体的には、それは文学に向かったということである。最初、それは北村透谷がそうであるように、現実における敗北を「想世界」において超越しようとするものであった。そこにはまだ「空の空を撃つ」闘争があった。しかし、透谷の自殺以後、日本の近代文学は、政治的な現実に背を向ける内面性となった。これは近代文学一般の特徴ではない。ただ、Iが無化された近代日本において、政治的・社会的な次元を斥ける個人は、Pとしてのみ見いだされたのである。
日本の自然主義文学もその延長にすぎない。それは「私化」する意識にもとづいており、実際、まもなく「私小説」になっていった。先に述べたように、小林秀雄は「私小説論」で、日本の「私」は個々人の顔立ちであるが、西洋における「私」は「社会化した私」であると述べた。それは、丸山真男の図式でいえば、自立化する個人を意味する。それに対して、日本の私小説はPのタイプだけである。マルクス主義文学はこれを叩きつぶしたが、結局、転向したマルクス主義者はほとんど私小説に向かったのである。
どんなかたちであれ、国民(臣民)の個人化を恐れた日本の国家にとっては、このような「私化」さえも危険に思われた。だから、このような文学者が、それによって、何か国家に抵抗しているかのような「気分」を抱いていたことは理解なくはない。しかし、石川啄木が「時代閉塞の現状」で述べたように、彼らは「強権に対して何等の確執をも醸した事が無い」のである。
そのようにいう石川啄木に、丸山真男が、私化するタイプとは異なる結社形成的な個人を見いだしたのはさすがである。《こうして彼は「強権の存在に対する没交渉」を主張するたぐいの「個人主義的」傾向の背後に、受動的な形をとった大勢順応がひそんでいるのを鋭く見ぬいたのであった。啄木は一般に急進的社会主義の同情者と見られ、あるいは感傷的ロマンチストとかいわれている。しかしその思想と行動を立ちいって検討すれば、彼の生活態度は、当時の自称「個人の解放」の主唱者の多くよりもはるかに、開かれた結社形成的な個人主義のエートスに近づいていることが明らかである》(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p399)。
しかし、啄木の批判にもかかわらず、また、マルクス主義者の批判にもかかわらず、日本の近代文学の基調は、私化する個人のタイプにあった。すなわち、「私小説」である。このことは、狭義の私小説が書かれなくなった現在においても変わりはない。「『強権の存在に対する没交渉』を主張するたぐいの『個人主義的』傾向」が支配的なのである。
ここでデモの話に戻ると、日本人がデモに行かないということは、たんに近代の社会(ゲゼルシャフト)ということでは理解できない。また、それを一般に大衆社会や消費社会のせいにすることもできない。私化した個人にとっては、たんなるデモでも大変な飛躍を意味する。もしデモに行くとすれば、原子化したタイプからなる群衆あるいは暴徒としてのみである。これは長続きしない。その後は、まったくデモがないということになる。それに対して、自立化した個人のタイプは、「個人と国家の間にある自主的集団」、つまり協同組合・労働組合その他の種々のアソシエーションに属しているから、逆に、個人としても強いのである。結社形成的な個人はむしろ、結社の中で形成されるものだ。一方、私化した個人は、政治的には脆弱であるほかない。
先に、私は日本には「象牙の塔」はないといった。このことも、右の事情と関係がある。ヨーロッパの大学は自治都市と同様に、もともと国家から自立したアソシエーションとして発展してきたが、日本の大学は国家によって作られたものだ。ゆえに、日本ではたとえ大学が「象牙の塔」となろうとしても、許されないし、事実、つねに批判されてきたのである。その点に関して、丸山はつぎのようにいっている。
 
国家権力の前に平等にひれ伏す臣民の造出が、ほとんど抵抗らしい抵抗をみないで成功したことの背景には、むろん、教育権を国家がいち早く独占したことが大きな意味をもっております。国家が国民の義務教育をやるということは、今日近代国家の常識になっておりますが、この制度が、日本ほど無造作に、スムーズに行われた国は珍しいのであります。なぜかといえば、ヨーロッパでは、教会という非常に大きな歴史的存在が、国家と個人との間にあって、これが自主的集団といわれるもの、つまり、国家によって作られた集団ではなく、権力から独立した集団のいわゆる模範になっております。この教会が、教育を伝統的に管理していた。そこでこの教会と国家との間に、教育権をめぐって非常に大きな争いをどこの国でも経験している。ところが日本では、徳川時代からすでに、たとえば仏教のお寺は完全に行政機構の末端になっておった。つまり日本では、寺院がすでに自主的な集団ではなくなっておった。ですから寺子屋教育を国家教育にきりかえることは、きわめて容易だったわけです。そのほか、ヨーロッパでは、自治都市や地方のコンミューンがやはり国家権力の万能化に対するとりでとなり、自主的楽園の伝統をつくる働きをしましたが、この点でも、日本では、都市はほとんど行政都市でしたし、また徳川時代の村にわずかに残った自治も、町村制によって、完全に官治行政の末端に包みこまれてしまったので、中央集権国家ができ上がると、国家に対抗する自主的集団というものはほとんどなく、その点でも、自由なき平等化、帝国臣民的な画一化が、非常に早く進行しえたわけです。(「思想と政治」丸山真男集第7巻p128129
 
このように、明治以後に生じた問題は、徳川時代あるいはそれに先立つ織豊政権の時代に根ざしている。日本において絶対主義的な集権化がおこったのは、この時期である。それは、ある意味で不徹底であり、ある意味で徹底していた。それが不徹底だったのは、徳川体制が他の諸侯を徹底的に滅ぼすまでにいたらなかったからである。徳川は、他の諸侯を全面的に制圧するかわりに、参勤交代その他によって他の諸侯を弱体化する方法をとった。それは外的に、東アジア一帯に、ヨーロッパのように他の絶対主義国家に対抗する必要がなかったからである。また内的には、天皇制の下での「将軍」という位置づけによって、他の諸侯の反乱の芽をあらかじめ摘んでしまったからである。
しかし、集権化という面でいえば、徳川体制は「徹底的」であった。ヨーロッパでは丸山真男が指摘するように、王権に対する西ローマ教会の対抗が強く、結果的に「中性国家」(カール・シュミット)に帰結したのであるが、織豊政権から徳川体制にいたる過程で、一向宗(浄土真宗)などの宗教勢力は完全に制圧されてしまった。このことは狭義の宗教の問題にとどまらなかった。一向宗は、堺などの都市国家、加賀などの農民コンミューン国家と結びついていたからである。ゆえに、徳川体制が宗教を制圧したことは、自主的結社を支える精神的基盤を根本的に奪うことを意味したのである。
徳川体制は外見上領主分国制であるが、実際は、地方分権的という意味での「封建制」は成立しなかった。逆に、徳川体制の下で、「国民」的な同一性が形成された。本居宣長が見いだす「やまとごころ」は、古代ではなく、18世紀後半に形成された感情的な同一性にもとづいている。それはすでに近代的なネーションの意識であり、同時期のドイツに生じたそれと併行するものである。それが、明治維新を通して、近代国家としての体制を急速に作り上げることを可能にしたのである。
徳川体制は、家産官僚国家のイデオロギーである朱子学を導入したが、それは言葉だけで、実際にはそのような国家にはならなかった。徳川体制において武士は官僚化した。豊臣秀吉の「刀狩り」以後、それまでのような農民=武士、武士=農民という現実的基盤が否定されたからである。以後、武士は土地をもつことなく、官僚として生きることになる。しかし、彼らは、中国や朝鮮においてそうであるような、官位によって土地財産を得る家産官僚ではなく、ある意味で、機能主義的な近代国家の官僚に近い。そして、そのような人々が、忠誠の対象を藩主から天皇に代表される明治国家にふりかえたとき、近代国家官僚制が完成したのである。明治維新は、天皇と将軍という二元性を解消し、多くの封建諸侯を統合して、絶対主義王権国家を実現したように見える。しかし、そのほとんどが徳川体制において用意されていたものである。
 このように、明治以後に見られる日本の特徴は、徳川時代に遡って見なければならない。だが、そうすれば、さらにもっと以前に遡行しなければならないということになるだろう。実際、丸山はそれを歴史意識の「古層」にまで遡行して考えている。私自身もかつて「日本精神分析」と称して、そのような遡行を企てた。しかし、現在、私はそのような遡行ではなく、それを世界史の普遍的なパースペクティブの中で見直すべきだと考えている。それはマルクスが示した、アジア的生産様式と封建的生産様式という視点を再考することによって可能になると考えている。実は、それは、「日本資本主義論争」以来、丸山真男自身が考えていたことである。しかし、それについて論じるのは、別の機会に譲る。
 
 
(注1)丸山真男はつぎのようにいっている。《象牙の塔とか、遊離した学問はいかんというようなことを言われますね。それはそれ自身いくら強調してもいいのですけれど、僕はやっぱり学問というものは生活とある緊張を保たなければいけない、そこには分離遊離じゃなくすることによって最もよく生活に奉仕するという、いわば逆説的な関係があるんじゃないかと思うんです。この考えは非常に危険なのですよ。一歩誤ると孤高になり、自分のものぐさ乃至は安易な生活態度をジャスティファイする論拠になり易いのです。僕なんかとくにそういう傾向があるので言う資格がないかも知れないけれども僕の考えはそうなんです。そうじやないと、ことに先程言いましたような、大衆文明の時代には日常的な現象に絶えず学問が引張られてしまって、時事の問題とかあるいは狭い意味の政治的要求に鼻面を引き摺りまわされて、結局学問自身の社会的使命を果せなくなる。学問じゃなくても果し得るもの、あるいは学問も果すかも知れないけれども学問以外のものでも果しうるような役割に学問が引張りまわされる事はやはり社会的な浪費です。学問にはやはりそれぞれの学問に固有の問題があります》(高見順との対談「インテリゲンツィアと歴史的立場」(雑誌「人間」昭和24年12月)。
 
(注2)私は、古在由重と丸山真男の以下のような対話に非常に好感をもつ。ただ、その国で第一級の哲学者と社会科学者が野球の比喩で語りあい、さらに、それを読者が享受できるというような知的環境は、欧米では考えられないだろう。
「丸山 古在さんの誠実さはスポーツ選手に感ずるようなカラカラッとしたものですね。プロ野球の選手などにいうと笑われるでしょうが、ノーダウン満塁、スリーボールのとき、ピッチャーは、右みて、左みて、スーッと投げますね。それから連続ストライク3つとってアウトにしちゃう。頭を下げるな、そういう精神は。
古在 いいですね。たまらないですね。そういうことをきくと、ピリピリしてきます。
丸山 私は、感情を移入しちゃう、投手にね。偉いものだと思う。私だったらとても、ああは簡単に投げられない。
古在 そうですか。僕はそういうとき、必ず投手でなく打者の方を想像するのですけれども。僕なら、こんどこそ必ずカッ飛ばしてやると考える。テレビなどで打者がストライクを見逃がしたり凡打したりするのをみていると、残念千万で、思わず、馬鹿野郎といいたくなってしまう。もちろん、僕の場合は、必ずカッ飛ばすという空想だけを描くのですが、ピッチャーのことは考えませんね……」(「一哲学徒の苦難の道」『丸山真男座談5』 p277-278)
 
(注3)サイバースペースがもたらすのは、匿名の「原子化する個人」である。それは「結社形成的な個人」をもたらさない。もともとそのような個人が多いところでは、インターネットは結社形成を助長するように機能する可能性がある。しかし、日本のようなところでは、「原子化する個人」のタイプを増大させるだけである。一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意しなければならない。
 
(注4)宮崎学は『法と掟と』(洋泉社2006)は、日本は自治的な個別社会を解体したために、国民国家と産業資本主義の急激な形成に成功したといっている。これは丸山真男の意見を受けつぐものだが、宮崎はさらにいう。今日のグローバル化の中で、日本のような在り方はもはや通用しなくなってきた。一方、中国では個別社会――幇(バン)や親族組織――が強く、それが国民(ネーション)の形成を妨げてきたが、逆に、今日のグローバル化において、国境を越えた個別社会のネットワークが強みとなっている、と。