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磯崎新もいよいよ巨匠の域に到達したのではないか。昨年完成した秋吉台国際芸術村を訪れて、私はそんな感慨を抱いた。山懐に抱かれるようにして立つホールは、イタリア合理主義を思わせる切れのいいデザインといい、石灰岩をドライ工法で張ったディテールといい、間然するところがない。それを手前から見渡す位置に立つ直方体の食堂も、さりげなくしかも完璧な仕上がりだ。ただ、その傍らに立つサロンは、すでに取り壊されて無い処女作N氏邸(1964年)をそのままリメイクしたものであり、いわば時空を歪ませるような特異点を形成している。そう、これは文字どおり建築家が長年積み重ねてきた経験の見事な総括なのだ。似たような場所に立つ岡山県の奈義町現代美術館とともに、秋吉台国際芸術村は日本の建築を研究する者が必ず訪れるべき巡礼の地となるだろう。 |
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その磯崎新が、今度は奈良と静岡に巨大なスケールの建築を完成させた。とくに、「なら100年会館」は紛れもない傑作である。楕円形の平面とクロソイド曲線の断面をもつ巨大な外殻は、黒っぽい瓦風のタイルで覆われ、マッシヴでしかも重厚な威容を誇っている。その中に大ホールと中ホールがあって、とくに全体がガラスの箱になった中ホールは実に美しい。全体がひとつの造形原理に貫かれ、また細部まで間然するところがないという点で、まさに非の打ち所のない傑作と言えよう。 |
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他方、静岡県コンベンションアーツセンター「グランシップ」はさらに野心的な建築である。「なら100年館」と似たような構造の上に、放物線の巨大な櫓をのせ、芸術劇場や中ホールに加えて、60m近い天井高をもつ大ホールを作り出したのだ。こうして、ちょうど富士山を正面に望む位置に、兜を思わせる形のカテドラルが出現することになった。もっとも、あまりデザインに気を取られるべきではない。また、その点では、「なら100年館」とちがって、いくつかの造形原理が齟齬をきたし、それがアド・ホックにしか解決されていない場面も見受けられる。むしろ、建築家は、そのような齟齬を覚悟で、通常の限界を超えたスケールが可能にする新たなスペクタクルの可能性に賭けたのではないか。そう、この大ホールは、いってみれば、70年の大阪万博の「お祭り広場」の実験の、形を変えた再現なのである。 |
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ちなみに、磯崎新は、『批評空間』誌上の連載で、重源が東大寺のマッシヴで構築的な大仏様によって小ぢんまりとまとまった和様を打ち破ったことに注目し、それとの関連で、ブルネレスキが当時は実現不可能と言われたフィレンツェの大聖堂のドームを完成させたことにも触れている。とすると、「なら100年館」はまさに現代の東大寺であり、「グランシップ」は現代の大聖堂であるということなのかもしれない。さらに言えば、そこで磯崎新がテクノニヒリズムによる巨大空間の突出に注目しているのに対し、同じ誌上の連載で、美術界きっての理論家である岡崎乾二郎は、ブルネレスキのデザインがいかに精密な比例計算によっているかをあらためて示してみせたのだが、それを「グランシップ」のデザイン上の不整合に対する暗黙の批判と読むこともできるだろう。 |
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いずれにせよ、「なら100年館」と「グランシップ」によって、日本はこの世紀の最後に二つのモニュメントをもつことができた。そこで問われるのは、それをどう生かしていくかということだ。 |
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実のところ、秋吉台の場合、1989年から毎年、作曲家の細川俊夫を中心とする現代音楽のセミナーが開かれてきており、国際芸術村が完成した去年も、その延長上で、ノーノのオペラ『プロメテオ』の日本初演をはじめとする意欲的なフェスティヴァルが開かれた。だが、立派な建築ができたことで、かえって、一人のアーティストに決定権を委ねるのはまずいという、一見、民主的、その実、官僚的な声があがり、従来のような質の高い活動の継続が危ぶまれている。 |
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「グランシップ」の場合、演劇に関しては静岡県舞台芸術センター総監督の鈴木忠志がおり、今年は彼を中心に第2回シアター・オリンピックスの多彩な公演が開かれる予定だ。しかし、館長はNHKのOBであり、どういうわけか、「なら100年館」の館長もまたNHKのOBなのである。文化施設のディレクターに専門的な知識と経験が要求される世界の常識ではちょっと考えられないことだ。別にNHKが悪いというのではない。ただ、たとえばNHK交響楽団のようなシロモノが「一流」の文化を代表すると思い込んでいる人物が館長を務めるとすれば、かれらが磯崎新の野心的な空間を使いこなせるとはとても思えないのだ。 |
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素晴らしい建築はできた。それがこれからどう使われていくか、われわれは注意して見守っていかなければならない。 |
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