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手帖14:映画の21世紀は『EUREKA』をもって始まる*[1] |
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映画の第二世紀は青山真治をもって始まる。劇場映画デビュー作『Helpless』(1996年)の予告篇で蓮實重彦のそんな言葉が大きく映し出されたときは、この戦略家ならではの大げさな誇張に辟易したものだ。不明を恥じねばならない。現に映画の21世紀は青山真治の『EUREKA』をもって始まったのである。 |
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物語自体は寓話的と言っていいほど単純だ。1992年。福岡県で起こったバスジャック事件で、6人の乗客と犯人が死に*[2]、運転手(沢井)と通学途中のロー・ティーンの兄妹(直樹と梢)だけが生き残るが、沢井はやがて出奔し、兄妹は自閉と失語に陥る。2年後。沢井は家に戻り、土方として働き始める。他方、兄妹は、母が出奔し、父が交通事故で死んで、二人きりで暮らすようになる。たまたまそのことを知った沢井は、兄妹の家に住み込み、そこに兄妹の従兄の秋彦*[3]も加わって、奇妙な共同生活が始まる。だが、それが安定することはない。近所では若い女性の刺殺事件が相次ぎ、沢井は肺に病(ガン?)を得る。やがて、彼らは、事件の現場からもういちどやり直すために、沢井の手に入れた「別のバス」に乗って旅に出る。むろん容易な旅ではない。途中、ナイフで女性を刺した直樹*[4]を、沢井は警察に自首させ、それについて「一線を越えたやつは隔離しないといけないんだろうし、本人にもそれが幸せなのかもしれない」と漏らした秋彦を、バスから叩き出す。それにもかかわらず、旅の過程で、自閉と失語のうちにあった兄妹と沢井や秋彦の間には、確実に何かが流れ始めている。やがて、沢井に連れられて海を、そして山を見た梢は、そこで色彩に満ちた世界を発見するだろう。「EUREKA(私は見つけた)」という無言の叫び――他者への、わけても兄への、言葉にならぬ呼びかけをもって、映画は静かに閉じられる。 |
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こうして要約してみると、これは、単純すぎるばかりか*[5]、あまりにタイムリーな話に見えかねないだろう。『EUREKA』の撮影後に実際に起こったバスジャック事件(驚いたことに映画と同じ西鉄バスが標的になった)をはじめ、さまざまな少年の事件が世間を賑わすなかで、心理学者や社会学者のような凡庸な評者たちは、この映画がそうした状況を「予告」し、社会の外にはみだしてしまった人間とのコミュニケーションの回復を繊細な手つきで描いている*[6]と言って、ほめそやしている。だが、その程度のことが言いたいのなら、映画など撮るまでもなく、それこそ短いコラムで事足りるだろう。『ユリイカ』小説版(角川書店)の言葉を借りれば、かれらは秋彦のように「トラウマという大学で覚えたての言葉で全て理解した気」になっているだけなのだ。『EUREKA』という例外的な傑作をそういう凡庸な評価から断固として救わねばならない。この映画は、バスジャック事件やトラウマからの回復を描いているからではなく、むしろ、際物的でさえある主題や単純すぎる物語を扱っているにもかかわらず、奇跡的に傑作たりえていると言うべきなのだ。 |
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それを可能にしたのは、要約してみれば単純に見えるこの物語を、細部に至るまで厳密に演出し、完璧なモノクロームの画面に収めて、3時間37分に及ぶ大長篇映画に仕立て上げてみせた、おそるべき映画作家としての手腕である。その規模と精度が、物語をセンセ−ショナルな紋切型から解放し、ほとんど自然現象にも比すべきリアリティを与えるのだ。脚本には無駄がなく、配役も理想的で、役所広司の九州弁を生かした演技*[7]、兄妹の微妙な表情、それらすべてが、的確な演出の下、静かに輝いている。田村正毅のキャメラがまた驚嘆すべきものだ。シネマスコープ・サイズを活かしきった撮影は、雄大なスケール(とくにバスの車窓を流れる風景――阿蘇だけではない)と微細な精度を兼ね備えており、モノクロームで撮影したものをカラー・ポジにプリントする「クロマティックB&W(ブラック・アンド・ホワイト)」と称する独自の手法は、それと知らない観客(たとえば最初に見たときの私)にもモノクロームの中にありとあらゆる色彩が潜在していると思わせるようなきわめて微妙なトーンを実現している。実のところ、最後で、生の回復を意味するかのように、色彩が顕在化して画面が現実にカラーになるのは、安易な予定調和に過ぎるだろう(そこで空撮になる、その空撮も、『Helpless』の冒頭の空撮を思わせるとはいえ、あれほどの魅力は持ち合わせていない)。むしろ、それくらい、モノクロームの画面がすばらしいということだ。ほぼすべてのショットが完璧であり*[8]、それが、これ以外はありえないという必然性をもって、論理的に、しかし、淡々と連なってゆく。緻密というのではない、そこには徹底して考え抜かれたものだけのもつ単純さがあるのだ――単純さ、そして単純さゆえの豊かさが。観る者はそこに、「表面的にはミニマリスティックなのに、実は無数の変化が内部でうごめいているかのような、複雑な表情」(坂本龍一)を読み取っていくことになるだろう。このすばらしい映像の妨げにならぬよう、音楽は抑制された使い方をされているが、それでもまだ削る余地があるように思われる。それこそ、秋彦にかかわって出てくる部分だけにしてしまってもいいのではないか。秋彦がピアノで弾くブルクミュラーの「貴婦人の乗馬」、秋彦が聴いているアルバート・アイラーの「ゴースツ」*[9]、そして、秋彦のラジカセから流れるジム・オルークの「ユリイカ」。とくに三つ目のシークエンスはすばらしい。この映画のなかでただ一度だけ激昂して、直樹を見捨てるようなことを言った秋彦をバスから叩き出した沢井は、やがて、彼がラジカセを忘れていったのに気づき、「あいた! わるかことしたなあ」と呟いて、ふとスイッチを入れる。そこで、バスの騒音に混じって「ユリイカ」が流れ出し、バスが海岸について梢が海に入るシーンで大きく高まるのである。「もしもし聞こえる?」と始まるその歌は、梢から直樹への呼びかけであると同時に、沢井や秋彦も含めたみんなのみんなに対する呼びかけでもあるだろう。その歌を包むノイズは、その呼びかけが正しく届くかどうかわからないことを示唆している。それでも、いや、だからこそ、人は呼びかけるのだ。率直に言って、私はこの曲を含むジム・オルークの『ユリイカ』というアルバムを――妥協のない実験音楽から能天気な歌へのあられもない回帰を、ほとんど評価しない。だが、その中で唯一救うに足る「ユリイカ」という些細な曲を、青山真治は見事に救い、究極的にはそこからこれほどの映画を作り出したのだ*[10]。偉大な映画作家にしてはじめてなしうる奇跡である。 |
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そう、すべての面から見て、『EUREKA』は偉大な映画であると言ってよい。そもそも、3時間37分の白黒映画と聞けば尻込みしたくもなるが、実際に観てみると絶対に長いと思うことはない、それこそこの映画が傑作である第一の証左だろう。長いというならそれは人生そのものと同じように長く、逆にいえば人生そのものと同じように短いのである――そこに映し出されるものが人生そのものと同じように単純で複雑であるように。そして、その時間をくぐり抜けた者は、20世紀というバスで何度も悲惨な事故に巻き込まれたにもかかわらず、また21世紀という「別のバス」に乗り込む勇気を与えられるだろう。それは、単純で豊かな原点に立ち戻っての、21世紀の映画の旅の始まりでもある。 |
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[付記:2001年8月]
*このあと、青山真治は自作に関して解釈を微妙に変化させたように思われる。モノクロームのまま終わる方がいいというのは、まともなシネフィルならだれでも考えることで、もちろん自分もそのひとりなのだが、あえてダサイと言われることを承知で色彩の回復に踏み切った。そもそも、言葉のない世界への自閉から解かれ、言葉の世界に回帰することで生命/生活を再発見するといえば聞こえはいいけれど、それは実際には猥雑な世界に回帰するということでもある。色彩の回復は実はそれを示唆するものでもある、というわけだ。彼が最初からそう考えていたかは別として、巧妙な自己解釈/改釈と言うべきだろう。
*『EUREKA』は日本国内では期待したほどのヒットにならなかったようだ。その間に、小説版『ユリイカ』の方が三島賞を受賞するという事態になってしまった。しかも、5人の選考委員のうち私の映画評を読んで映画館にかけつけた福田和也を除いて誰も映画を見ていないという驚くべき野蛮状態で選考が行なわれてしまったのである。小説版に関する私の評価は上に述べたところから明らかだろう。もしそちらの方が有名になってしまうとすれば、この受賞はけっして映画作家にとってプラスとは思われない。
⇒ Web CRITIQUE:第14回三島賞をきっかけに/浅田彰(2001/7/13) |
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