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ジュネの『バルコン』を観る
 ジャン・ジュネの戯曲『バルコン』が渡邊守章の訳・演出によって上演された。これは世界的に見ても注目に値する演劇的事件だったと言えるだろう。実際、1957年の初演(ロンドン)以来すぐれた演出に恵まれてこなかったこの戯曲がかくも明快に舞台化されたことは、いまだかつてなかったのではあるまいか。それは、しかし、ジュネの戯曲が容易に舞台化しがたい複雑怪奇な構造をもっているからでもある。フランス初演(パリ)に先立つこと2年、1958年3月5日のセミネールでいちはやくこの作品を取り上げたラカンの分析を参考にしながら、その構造を簡単にトレースしてみよう。
 現代の日本でなら「イメクラ」などと呼ばれもするであろうイルマの娼館で、客は娼婦を相手に司教や裁判官や将軍を演じ、倒錯の劇に耽る。これは「象徴的関係の色情化」に他ならない。だが、警視総監の役だけは誰も演じようとしないだろう。20世紀の歴史が教えるとおり、動乱の中でそれ自体ひとつの淫売屋と化したこの世界において最小限の秩序を保証してくれる存在、したがって現実には最も重要な存在が警視総監であるにもかかわらず、その地位は司教や裁判官や将軍のような象徴的価値を未だ獲得していないかのようだ。いや、警視総監というのはそもそも情報と権力の不可視の中心点にいるからこそ近代社会においてかくも重要な存在となったのではなかったか。だが、『バルコン』の警視総監は、あくまで自分の役が他の伝統的な役と同様に娼館の舞台で演じられることを望み、それにふさわしい可視的なイメージとして「巨大な男根の姿」を提案しさえする。しかし、それは警視総監の望むような「象徴の状態への移行」を可能にするだろうか。むしろ、いたずらに滑稽な効果を生むだけではないだろうか。いずれにせよ、その提案は無用のままに終わる。なぜか。
 実は、イルマの娼館で倒錯の劇が演じられている間にも、外では革命の嵐が吹き荒れている。「外」? しかし、それは本当に「外」なのか。革命というのもまた娼館で演じられるイメージの劇でないという保証がどこにあるのか。事実、イルマの娼館から逃げ出したシャンタルが、いわば「民衆を率いる自由の女神」のような革命のイメージとなったとき、警視総監は「あの女が一つのイメージになったのなら、こっちもそれを利用するだけだ」と嘯き、女王役のイルマを先頭に娼館の客たちを本物の司教や裁判官や将軍として市中を行進させることで、イメージの闘いに打ち勝って、まんまと事態を収拾してしまうだろう。「警視総監は革命の前も後も同じく淫売屋だということを疑わない」のであり、「この意味で革命が遊戯=演技(jeu)だと知っている」のである。こうして革命が敗北し、シャンタルが殺された後、劇的な展開が起こるだろう。シャンタルを革命に引き込んだ愛人のロジェがイルマの娼館に現れ、ついに警視総監の役を望む。そして、警視総監になりきった自己をナイフで去勢するのだ。それは、しかし、現実には警視総監にいかなる脅威ももたらさない。「世界じゅうの淫売屋においてわしのイメージが去勢されたとしても、このわしは、無傷でいられる」と嘯く警視総監は、やがて、「死者以上に完全に死んだ」不可視の〈父〉となるべく、娼館にしつらえた壮麗な墓所へと自ら下ってゆく。精神分析家に従って言い換えるなら、「彼の提案した男根のユニフォームという形態の下における象徴の状態への移行はもはや無用」なのであり、むしろ去勢こそが「男根があらためてシニフィアンの状態に高められるようにする」のである。
 こうして分析してみると、『バルコン』もけっこう図式的な構造をもった作品のように見えなくもない。だが、ラカン自身も示唆しているように、ジュネの膨大なテクストはこうした図式に収まりきらない複雑性に満ち満ちている。そう、ジュネの戯曲がこのような分析に耐え、しかもそれを超えた独自の生命をもつのは、それが演劇的というほかない両義性によって隅から隅まで貫かれているからなのである。
 翻訳者としての渡邊守章は、そうした両義性も含め、ジュネのテクストのいかなる細部をも見逃すことがない。と同時に、手だれの演出家としての彼は、そういう複雑怪奇な言葉の迷宮を、快刀乱麻を断つ勢いで分節化し、次々に華麗なシーンとして舞台化してゆく。大げさな衣装をまとい高沓を履いた偽のお偉方の歌舞伎風バロックとも言うべき滑稽さと、若い男優の演ずる黒い下着姿の娼婦たちの冷たく整った美しさ。何より、篠井英介の優雅にして下卑たイルマは完璧なはまり役で、彼の芸歴の中でもひとつの絶頂として記憶されるだろう。美輪明宏にきちんと台詞が言えたら――そんな夢が篠井英介によって現実のものになったと言えばいいだろうか。さらに、装置と照明、そして音楽も、とことん考え抜かれ洗練された見事なものだ。ジュネに対する(おそらくサルトルを介した)マラルメの影響を重視する演出家は、巨大な鏡を巧みに使って、抽象的な舞台の空間を、きらびやかにして不毛なイメージの明滅する反映の場と化し、滑稽なまでに大仰な音楽に交えて、マラルメに基づくブーレーズの『プリ・スロン・プリ』をさりげなく引用したりするのだ。こうして、ジュネのテクストは、インターテクスチュアルな連関も含め、それこそマラルメ風に言えばシャンデリアのような多面体として、しかし、あくまで明晰に分節された姿を、舞台の上に現すことになった。それを歴史的な事件というのは、けっして誇張ではない。
 確かに、大規模なプロダクションではないため(それにしても、こういう本格的な公演は本来は公共の大劇場がプロデュースしてしかるべきではないか)、いろいろ限界もあった。何より、3時間という制限のため、大胆なカットにもかかわらず、あまりに多くの要素を忙しく詰め込みすぎた感がなくもない。だが、それは贅沢な不満と言うものだろう。
 もとより、劇作家としてのジュネの前には、獄中で小説を書き続けたジュネがおり、その後には、孤独な放浪の果てパレスチナに辿り着いたジュネがいる。だが、舞台にかかわって表象による表象の解体を目指した実験――ある意味ではその失敗が、その間で決定的な役割を果たしたのではないか。華麗にして不毛な『バルコン』の舞台は、そのことをあらためて教えてくれるように思う。

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