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三島由紀夫賞が青山真治の『ユリイカ』と中原昌也の『あらゆる場所に花束が……』に与えられました。選考委員の島田雅彦と福田和也が、元「暴力温泉芸者」のミュージシャンである中原昌也を推し、それに抵抗する他の選考委員とのバーターのような形で青山真治の受賞も認める結果になったということでしょうか。ともあれ、あえて映画監督とミュージシャンを選ぶことで三島賞を芥川賞から差別化するという見え透いた試みが一応成功を収めたということで、戦略勝ちを収めた関係者たちは「首尾は上々」(福田和也)と大喜びのようです。
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私の立場は、青山真治については明確です。私は映画『EUREKA』を反時代的な正統派の大作として激賞しましたが、そのノヴェライゼーションである『ユリイカ』は、中上健次の安易なパスティシュの域を出るものではなく、映画で語られなかった細部についても説明的に過ぎて、それなりに丁寧に書かれていることは確かだとしても、独立の小説として力のある作品だとはとても言えないと思います。要するに、映画と小説では格が違うのです。ところが、私の映画評を観て映画館に走った福田和也を除いて選考委員の誰もが映画の方を見ていないという恐るべき野蛮状態の中で、ノヴェライゼーションの方が文学賞を受けてしまったのですから、まったく困ったものです。これは青山真治という才能ある映画監督にとって決して正当な評価とは言えないでしょう。 |
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では、中原昌也についてはどうでしょうか? 私は、恥ずかしいことに彼の音楽活動についてはほとんど知らず、主に映画評論を読んできただけです。それは、私などよりはるかに豊かな映画的教養に基づいており(私自身は映画的教養やシネフィリーをできるだけ排除して映画にアプローチする方針ですからそれに圧倒されたりはしませんが)、B級以下のクズを、A級の名作を超える異端の名作などとしてではなく、たんにクズとして押し出すという原則(しばしばこの原則が破られて「A級よりあえてB級を」という紋切型に議論が流れるのは事実ですが)に基づいて下される批評的判断も、おおむね正当であると考えてきました。驚きはほとんどないにせよ、それなりに信頼のおける映画批評であるということです。しかし、中原昌也の小説の面白さ――とくに一定の長さを無理に確保しようとしたかに見える『あらゆる場所に花束が……』の面白さが、私にはまったくわかりません。無意味な暴力とセックスに満たされた断片がえんえんと連続するばかりで、その不毛な断片性がむしろ面白いと言わせるだけの強度もない。正直なところ、この小説の何が面白いのかわからないという点で、私の印象はむしろ宮本輝や高木のぶ子が確かに反動的と言うほかない立場から吐露している印象に近いのです。もちろん、この反応が世代的な偏見や感受性の欠如からくる可能性は認めます。それにしても、あのくらいきちんとした映画評の書ける人が、まぜこんなにつまらない小説を書いて時間を浪費するのか。だからこそ、いま、「中原昌也の小説は本当に面白いのか」という問いを私より明敏なみなさんに発してみて、その答えをヒントに中原昌也を読み直してみたいのです。ちなみに、かつて三田格は、「スーパーフラット」を論じた「原宿フラット」のパネリストだった私について、「浅田彰はまるでセックス・ピストルズだった。世界の最果てで愛を叫んだけものだった。[…]ノー・フューチャー・フォー・ユー。ノー・フューチャー・フォーミー。[…]素晴らしいパフォーマンスだった」と絶賛(?)しながら、私が別の座談会で中原昌也を批判したことは大間違いで、「浅田は中原に手をついて謝ったほうがいい」と書いていました(『噂の真相』2001年2月号)。私はとくに中原批判を語った記憶もありませんし、一体なんのことだかさっぱりわかりません。この際、ついでにそのミステリーも氷解することを期待しています。今のところ、私が「手をついて謝る」ことはおよそないだろうとは思うのですが。 |
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▲ 第14回三島賞をきっかけに/浅田彰(2001/07/13)
▼ Re: 第14回三島賞をきっかけに/ 秀実(2001/07/17)
▼ Re: 第14回三島賞をきっかけに/渡部直己(2001/07/24)
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