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青山小説作品『ユリイカ』については、ぼくは雑誌「ユリイカ」の今年の青山特集号にて、その作品の中心概念をなす「8月12日」を中上健次の命日の1日違いだと(主に、ぼくの老眼という物理的理由から)誤読して(この日が中上のジャスト命日)、全く主観的な願望から論を組み立ててしまったので、さしあたり弁解以上のことはできません。つまり、ぼくは、あの小説を中上のパスティッシュを超えたところで読もうとしたわけです。しかし、あの論を撤回するつもりも(書いてしまったわけで)ないのですが。 |
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中原作品については、彼の前2作については、万が一にはベケット化するかもと評価しておりましたし、そのジャンク(J)ぶりについては、「もしかしたら」という期待を持っていたのですが、受賞作については論じる気がわきませんでした。すでに別のところでも書いているのですが、彼のアーティスト(美術シーン)としての活動は、ぼくの友人がそこにかつて噛んでいたということもあるにしろ、ポスト赤瀬川として評価しておりますし、赤瀬川(尾辻克彦)が美術家のみならず、小説家として80年代をも決定する、ある種エポックメイキングなところがあった(『老人力』はサイテーですが)ように、前2作は評価すべきものだと思いました。しかし、受賞作は――やはり長く書くとちょっとなー、ですね。 |
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今回の三島賞受賞の受賞理由が、(福田和也のごとき確信犯であるにしろ)ある種トンチンカンであるのは事実だし、ぼくがとりあえず言える中原についても、結局、同じ作者のなかでも相対的につまらない作品にしか賞が分配されないというのは、文壇の鈍さとして相変わらずであり、それをミュージシャン出身だから何かエポックメイキングだと喧伝しているのは、まあアホですね。コンシューマリズムがいまだ(いまなお)文壇で機能していると信じられているいうことでしょうが、そんなものは多分、中原を三島賞受賞者にするくらいでは弥縫できますまい。 |
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さて、しかしぼくの関心は、今はちょっと別のところにあります。これは、多分、『批評空間』に書く予定の「文芸時評」のテーマとなることですが、たとえば高橋源一郎の、小森陽一の「歴史修正主義」の問題です(高橋『日本文学盛衰史』、小森「群像」連載大江健三郎論のとりわけ8月号分)。そして、それはきっと、中原昌也のあの作品を「良い」と強弁してしまう「文壇」のメンタリティーとも、あるいは柳美里の「石に泳ぐ魚」を擁護してしまう「文壇」の機制とも関係している。詳しくは、新生「批評空間」をお読みください。爆弾発言満載、なーんちゃって(まだ書いてないんですけどね)。 |
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まあ、「批評空間」復刊第一号の拙稿を予告して(本当にそうなるかはわからないが)、とりあえずの回答とします。 |
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それから、これは自己宣伝めきますが、主に「批評空間」第II期に連載した『『帝国』の文学』(以文社)が出ました。おのずから、高橋源一郎『日本文学盛衰史』批判でもあります。よろしく。 |
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▼ 第14回三島賞をきっかけに/浅田彰(2001/07/13)
▲ Re: 第14回三島賞をきっかけに/ 秀実(2001/07/17)
▼ Re: 第14回三島賞をきっかけに/渡部直己(2001/07/24)
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