Critical Space Archive

われもまたアルカディアに――近代建築の「天人五衰」
 建築と他領域の対話を目指して1991年のロサンジェルスでの「Anyone」に始まったANYコンファレンスが、今年のニューヨークでの「Anything」で、予定された10年の期間を終了した*[1]。それが21世紀の新しい建築のパラダイムを用意できたかどうかはわからない。ただ、タイトルの示す通り一種の決定不能性を前提として多岐にわたる問題を討議してきたこのコンファレンスの記録は、20世紀末の建築――さらには知の領野全体に生じた地殻変動を計測する上で、ひとつの貴重な資料となるだろう。
 そのなかでも目立つのは、言語学モデルとデリダ的脱構築の結合(一時期のピーター・アイゼンマンに代表される)から、コンピュータ・グラフィック・モデルとドゥルーズ的(というよりベルクソン的)生気論の結合への、パラダイム転換である。というか、ちょうど日本語版の出る1997年の「Anyhow」に見られる通り、そういうパラダイム転換が起こるかに見えて不発に終わったと言う方が正確だろう。この時は、ドゥルーズ派に近い建築理論家のサンフォード・クウィンターやコンピュータを駆使するデザイナーのグレッグ・リンのような若い世代が、アイゼンマンの世代への一種のクー・デタを試みたのだった。しかし、新しい生気論の目指すのが、すでにある流れのなかに潜り込んでそれを内側から多様性に導いてゆくということであってみれば、天下り式にパラダイムを提示したり、前衛としてそれをリードしたりするというのは、そもそも趣旨に反することになってしまうわけで、クー・デタが流産に終わったのも無理からぬことだったのかもしれない。こうして理論の前線が停滞するなか、むしろ両者の中間の世代に属するスティーヴン・ホールやジャック・ヘルツォーク(&ピエール・ド・ムーロン)らが、「理論もデザインももうどうでもいい、人間に本当に必要なのは光と空気と水だ」というようなポーズをとってみせるというのが、ANYコンファレンスの終盤で目立った光景だった。
 しかし、ANYコンファレンス全体は、とてもこんな簡単な総括ですませられるものではない。また、こういうコンファレンスの常として、本当に面白いのは、議事録に残る報告や討議より、食事やその他の行事の場でのやりとりだったりもする。ANYコンファレンスの記録そのものの検討は他日を期すとして、ここでは最後の「Anything」の後で行なわれた行事―――フィリップ・ジョンソン邸への訪問について記すことで、ANYコンファレンスへの追記に代えたいと思う。
 フィリップ・ジョンソンがある意味で20世紀の建築史を体現する人物であることは言うまでもない。1906年にアメリカの裕福な家庭に生まれた彼は、若い頃から何度もヨーロッパを旅して勃興期の近代建築に触れ、29年に創設されたニューヨーク近代美術館(MoMA)で32年に「近代建築」展を開いて、それを「インターナショナル・スタイル」として世界に普及させる上で決定的な役割を果たす*[2]。そして、モダニズムの見本とも言うべき「ガラスの家」(49年)を自邸として建て、ミース・ファン・デル・ローエのパートナーとしてシーグラム・ビル(54-58年)の設計にも参加して、近代建築のリーダーのひとりとなってゆく。しかし、時代の変化に敏感な彼は、やがてポストモダニズムへと転向し、これまた歴史主義的ポストモダニズムの見本とも言うべきAT&Tビル(84年)でセンセーションを巻き起こしたばかりか、さらに、アイゼンマンらのディコンストラクティヴィズムに興味を示して、88年には古巣のMoMAで「ディコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」展を開くというように、つねに時代の先端にあって変貌を――いささか大袈裟にいえば転生を繰り返してきたのである。
 94年に出たフランツ・シュルツのジョンソン伝*[3]。は、このプロテウス的な軌跡の背後に、洗練されたニヒリストの肖像を描き出して、話題を呼んだ。それによると、ゲイであり、ギリシア哲学からニーチェ主義に転じたジョンソンは、そのようなテイストゆえに、ヨーロッパ――とくにドイツに惹かれたのであり、そこでモダニズム――なかでもミースの貴族的な完全主義を発見すると同時に、ファシズムにも興味をもって、なんと34年から40年まではアメリカでファシズムの政治運動に没頭していたというのだ。それが幸か不幸か失敗に終わり、戦争の後、ジョンソンは47年にMoMAで開いたミースの回顧展と49年の「ガラスの家」で建築界に復帰する。しかし、彼はけっしてミースのような確信をもった建築家ではなく、自分でもそのことをはっきりと意識していた。むしろ、そういうシニカルな自己不信とニヒリスティックな相対主義ゆえにこそ、彼はその時その時の建築の動向を敏感にとらえ、価値判断を抜きにしてそれに身を添わせてゆくことができたのである。いたずらにゴージャスなポストモダン高層建築の量産を批判された際の、「あたしゃ売女だし、高層建築を建てるとずいぶん儲かるんでね」というシニカルな居直りは、いかにも彼らしいものと言えるだろう。
 そんなジョンソンが半世紀以上にわたって手塩にかけてきた自邸は、この建築家の生涯の、そして、20世紀建築史の一側面の、精巧なミニアチュア・モデルと言ってもよい。ニューヨークから北へ一時間あまり、コネティカット州ニュー・カナン*[4]にある、数十ヘクタールの傾斜地。アルカディアという言葉も不似合いではないと思えるその美しい緑の空間に、半世紀前に建てられた「ガラスの家」と「煉瓦の家」に始まり、人工の池に浮かぶ白亜のパヴィリオン、トーチカのように埋められた絵画ギャラリー(正面奥と左右の3つの回転軸のまわりに多数のパネルがとりつけてあり、2枚ずつ計6枚のパネルを選んで展示できるようになっている)、やはり半ば地下の彫刻ギャラリー、アルド・ロッシ風に見えるライブラリー、フランク・ゲーリーに捧げた鳥小屋を真中で切断したようなフォリー、リンカーン・カーステイン*[5]に捧げた積み木の塔のようなフォリー、そして、最近のフランク・ゲーリーやザハ・ハディドの作風に似たモンスターと呼ばれるヴィジターズ・センターなどが、ぽつぽつと点在しているのだ。
 とくに、「ガラスの家」は、建てられた時の姿のまま――というか50年に『アーキテクチュラル・レヴュー』誌*[6]に発表された姿のまま、ほぼ完璧な形で維持され、実際に住まわれている。キッチン、ダイニング、リヴィング、書斎、寝室、バス・ルームをひとつながりの空間にまとめておよそ17m×10mの透明なガラスの箱のなかに収めてみせた、実にスタイリッシュな住宅。日本なら当然プライヴァシーが気になるところだが、見渡すかぎり自分の地所なのだからそんな心配はないわけだ。というか、ANYコンファレンスの常連でもある建築史家ビアトリス・コロミーナ*[7]の用語を借りれば、ここではプライヴァシーとパブリシティが不可分なのであり、建築家は自分がそこで実際に私生活を営んでいる様子――食品でいっぱいの冷蔵庫、適度に乱れたベッド――を訪問者に見せているのだとも言える。だが、よく見てみると、この建築は形態的にも機能的にも一見そう見えるほど自律的ではない。ぎりぎりまで純粋な「ガラスの家」といえば、ミースのファーンズワース邸(46-51年)のようなものを言うのであって、ジョンソンの「ガラスの家」は、いささか不器用な四隅の扱いといい、煉瓦の基部といい、結局のところミースの不完全なコピーに過ぎないと言うべきだろう。しかも、それが生活のすべての機能を満たしているようで実は違うことは、当初から「ガラスの家」を補完するために――ゲスト・ハウスという名目にせよ――「煉瓦の家」が必要だったことが如実に物語っている。実際、いまもジョンソンはどうやら「煉瓦の家」――3つの丸窓以外は完全に閉ざされた「ガラスの家」の暗い分身――の方で寝ているらしいのだ。
 こうしてみると、ジョンソンが最初にオリジナルな作品として「ガラスの家」を作り、後にロッシなりゲーリーなりのコピーを付け加えていったという見方は、正しくないと言うべきだろう。むしろ、「ガラスの家」そのものがすでにコピーだったのであり、ジョンソンはその時々に同じことを繰り返して完璧なフェイクの集積とも言うべきニュー・カナンの建築群をつくりあげていったのである。そして、まさにその意味において、この建築群は20世紀建築史そのもののアレゴリーとも言えるのではないだろうか。
 その点でいかにも印象的だったのは、全体にきわめてよく手入れされていながら、これらの建築群がやはりそこここで崩壊の兆をあらわにしていたことだ。絵画ギャラリーは、アンディ・ウォーホル*[8]によるジョンソン像をはじめ、フランク・ステラからシンディ・シャーマンにいたるさまざまな作品を収めているが、もっとも重要な部分は美術館に寄贈されてすでになく、部屋の隅には水漏れの跡もある。彫刻ギャラリーになると、水漏れの跡には緑の苔が生え、勝手に入り込んできた鳩の糞がロバート・モリスの金属彫刻を覆っている。いや、いまもできたてのように見える「ガラスの家」にすら、そのような崩壊の相を見ることができるのではないか。というのは、「ガラスの家」ができた時からそこに置かれていたプッサンの絵のことだ。「フォーキオーンの葬送」*[9]というこの絵は、パッラーディオ風の理想的な建築の点在する美しいアルカディアの風景のなかで、そこに埋葬されることを許されなかった古代アテネの武人の死骸が白布に覆われて担架で運び出されてゆく様を描いている。死が「われもまたアルカディアに」と囁くという、いかにもプッサン的なアレゴリーだ。しかも、ジョンソンが父から相続したというこの絵は、プッサンの権威アンソニー・ブラントによってオリジナルではないと判定されており、おそらくそのせいでむき出しのまま画架にかけて展示されているのだ。アルカディアに内在する死のアレゴリー――しかもそれ自体が偽物の。これこそ、しかし、20世紀建築のアルカディアとも見えるニュー・カナンの建築群そのもののまたとないアレゴリーにもなっていると言えるのではないか。
 94歳の誕生日を間近にしたジョンソンは、「ガラスの家」の前でANYコンファレンスのメンバーひとりひとりを優しく出迎え(意地の悪い批評家なら、20世紀最後の建築の前衛たらんとしたANYコンファレンスも、建築界の「天皇」との謁見の儀式に終わった、と言うところだろう)、しばらく談笑していたが、少し前に太極拳の練習をしていて転び、頭を何針も縫う怪我をしたというので、しばらくすると「煉瓦の家」の寝室に引きこもった。水槽のように透明な「ガラスの家」と、棺のように見えなくもない固く閉ざされた「煉瓦の家」。20世紀最後の夏の明るい光が、その両者に等しく降り注いでいた。
 最後に、ジョンソン邸を訪問した後ニューヨークに帰ってからのことを語っておきたい。夕方までにまだ時間があるので、ホイットニー美術館に寄って〈ホイットニー・バイエンニアル2000〉をのぞいていた私は、いつも通りのどうしようもない混沌のなかで、ひとつの興味深い作品に出くわした。DNA解析パターンをモチーフにした作品などで注目されてきたイニゴ・マングラノ=オヴァッレが、ミースのファーンズワース邸に取材した作品を出展していたのだ。最小限に単純化されたフレームでファーンズワース邸と同じプロポーションの空間を作り、その中央に吊るしたスクリーンに、この家のガラスを拭く男の映像をえんえんと映し出す。それは、キュレーターが解説で示唆するように、自律性を主張する近代建築が実は煩瑣な家事労働に依存していることへの暗黙の批判なのか。むしろ、ジョンソンのような偽物ではない、まさしくモダニズムの純粋な原型ともいうべきミースの作品に対するほとんどフェティシスティックな崇敬を、そのこと自体を意識しつつ作品化したものなのではないか。そんなことを考えながら、私はそのシンプルなインスタレーションを飽かず眺めた。私の見つめる映像のなかで、男は淡々と窓拭きを続け、ガラスはますます透明になっていった。

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