Critical Space Archive

フォーサイスの現在
 ウィリアム・フォーサイスのCD-ROM『インプロヴィゼーション・テクノロジーズ』が日本で一般に紹介されることになった。1994年にハード・ディスク版がつくられ、99年にそれを簡略化したCD-ROM版が発表された、そこに日本語訳のブックレットを付したものが発売されたのである*[1]。フォーサイスとフランクフルト・バレエ団がいまもおそるべきスピードで進化し続けているだけに、ずいぶん古いもののような錯覚を覚えもするが、ダンスの歴史全般からすると、これはやはり革命的に新しい事件であると言わなければならない。
 このCD-ROMの主要部分をなしているのは、フォーサイスが自ら行なってみせる動きの解説の集積である。そこでは、フォーサイスの身体言語の語彙と文法が、きわめて分析的に提示されてゆく。バレエやダンスを記譜する試みは昔からあったが、ヴィデオとCD-ROM(をはじめとする電子的媒体)を得てはじめて、真に実用的な水準に到達したと言えるのではないか。その意味でも、これはダンスの歴史の上で特筆すべき事件である。もっとも、このCD-ROMは、フォーサイスの即興的なレクチャー・デモンストレーションを再編集したものであり、彼の身体言語の語彙と文法が網羅的に集大成されているわけではない。だが、それ以上に重要なのは、フォーサイスが身体と空間の徹底的な分析の中から新しい身体言語を生み出していく際のヒューリスティック(発見的)な方法が、実にヴィヴィッドに示されていることだ。前進的な動きを後退的な動きに変換するとどうなるか。身体の外へ動機付けられた動きを身体の内へ動機付けられた動きに変換するとどうなるか。フォーサイスは、このCD-ROMがあくまでバレエ団のメンバーの自習のための教材であることを強調するが、それは、かれらが習得すべき語彙と文法の体系にとどまらず、かれらが自ら語彙や文法を開発していくための方法論でもあると言えるだろう。こうして、フォーサイスの開発した「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」――ただのテクニックではなく――を体得したダンサーたちは、それぞれが自由な即興を交えながら、まさしくフォーサイス的なダンスを展開していけるようになる、というわけである。
 それにしても、ここでのフォーサイスのレクチャー・デモンストレーションは、たしかに意図して教科書的でありながら、一瞬も目が離せないほどスリリングだ。芸術家気取りのかけらもない振付家は、いたってざっくばらんな語り口で、二つの点を結ぶ線を想像するというもっとも基礎的なところから解説を始める。しかし、「線」というその章の最後の「複雑な動き」までいくと、早口で明晰に語り続けるフォーサイスの身体は、すでに驚くほどダイナミックなダンスを展開しはじめ、唖然として見ているうちに、またいちばん基礎的なところに戻って実にさりげなく終止してみせるのだ。「身体化された知」という言葉はすでに古いが、それがこれほどの水準で実現されたことがかつてあっただろうか。
 このCD-ROMには、さらに、こうして構成されたフォーサイスの身体言語を4人のダンサーたちが使ってみせる「例」、そして、フォーサイスがひとりで踊る「パフォーマンス」が収録されている。実は、ハード・ディスク版では、「パフォーマンス」として、「Self Meant to Govern」(「エイドス:テロス」第一部)の舞台を4つのキャメラ(ユーザーが自由に選べる)で撮影したものが収録されていた。フォーサイスの身体言語がさまざまなダンサーたちによっていかに実演されていくかを見る上では、その方がわかりやすかったと言うべきだろう。だが、そのかわりにCD-ROM版に収録されたフォーサイスのソロも、それ自体として驚くべきパフォーマンスだ*[2]。彼自身が言うように、そこでは彼の身体言語があまりに急速かつ柔軟に展開されていくため、われわれの目ではとても分析しきれない。それでも、先にあげた「複雑な動き」のようなレクチャー・デモンストレーションを見直してみると、それを極限まで突き詰めていったところにこのソロが成立していることがわかってくるだろう。その意味でも、このCD-ROMは、フォーサイスのダンスの基礎から尖端までを垣間見ることのできる、きわめて貴重なドキュメントなのである。
 このような技術をさらに高度に発展させながら、フォーサイスとフランクフルト・バレエ団はいまもおそるべきスピードで進化し続けている。その現状を示す例として、昨年10月にフランクフルトで初演され、今年6月にパリで再演された「エンドレス・ハウス」について触れておこう。
 「エンドレス・ハウス」はさまざまな意味で問題作と言ってよい。第一に、会場がひとつではないのだ。第1部は古典的な劇場の舞台で演じられる。だが、それが終わると、演者も観客も別の会場に移動しなければならない。そこでは会場全体のいたるところに舞台がしつらえられており、第2部ではダンサーたちがそれらの舞台を移動しながら同時多発的パフォーマンスを展開してゆくのである*[3]
 内容もそれに劣らず問題含みだ。ダナ・カスパーセン(フランクフルト・バレエ団の主要メンバーであり、フォーサイスのパートナーでもある)の演出による第1部では、2人の男が舞台に現れ、チャールズ・マンソン(ロマン・ポランスキーの妻だったシャロン・テートを惨殺したことで名高い)の証言を素材とする台詞を語り続ける。外傷、憑依、分身、そして悪魔祓いといったそのテーマは、カスパーセン自身が蜘蛛女を演じた「エイドス:テロス」の第2部にすでに見られたとおり、彼女が一貫してこだわっているものだが、それをストレートに演劇化しすぎて、いたずらに生々しい印象を与えるところがある。しかし、その地獄のようなドラマとは対極的に、静かに流れ続けるガムラン音楽、そして、それじたい優雅なダンスのように上下するぼんぼりのような照明は、催眠的なまでに美しい。そう、全体として見るとき、やはりそれはフォーサイスならではの舞台に仕上がっているのだ*[4]
 この第1部の後、観客は、文字通り古典的な劇場での催眠状態から覚醒して外に出ることを要求される。そして、第2部の会場では、いたるところに散在する舞台の間を自由に動き回りながらダンスを見ることになる。フォーサイス自身の演出によるこの第2部というのが、信じられないほど迫力に満ちたパフォーマンスだった。なにしろ、ダンサーたちが観客の間をかき分けて出てきたり、観客の中に突っ込んで行ったりするので、場合によっては体が当たって危険なくらいの距離で、フォーサイス特有のあの超絶的なダンスを見る――というか、まさしく体験することになるのだ。手の届く距離で組み上がっては解体されてゆくダイナミックな群像。足元に横たわるダンサーのエクスタティックな表情と大きくしなった身体。それに間近に触れるのはまさしく戦慄的な体験だ。もちろん、第2部でも第1部のテーマが受け継がれており、マンソン事件にエミリー・ブロンテの「嵐が丘」とバリ島の悪魔払いの儀式を加えたシナリオらしきものが、抽象的なダンスからラップをへて文字通りのゴースト・ダンスに至る多彩な踊りによって展開されてゆくのだが、その踊り自体があまりに圧倒的なので、テーマは背景に退き、全体がいわば高度に形式化されたカーニヴァルといった色彩を帯びることになる。トム・ウィレムスの効果的な音楽や、スティーヴン・ギャロウェイの実に洒落た衣装も、特筆に値するだろう。だが、なんといっても、仕切りや照明をどんどん動かして会場の空間全体をたえず作り変えていくところが、この上なくスリリングだ。なにしろ、「そこ、場所をあけて、君、前に出て」と言って会場を走り回っている整理係がいると思ったら、なんと、それがフォーサイスその人なのだから! 「workwihtinwork」のような近作で、フォーサイスはバレエの完成形態を極めたかに見えた。その上でふたたびこれほど大胆な実験を試みる勇気、そして、それを一瞬の弛緩もなくやり通す技術には、あらためて圧倒されるほかない。そう、あのCD-ROMにその一端を見ることのできる高度な技術がダンサーたちに完全に共有されているからこそ、昔から実験としては行なわれてきた、しかし、おおむね弛緩したアナーキーに終わりがちだった同時多発的パフォーマンスが、これほどスリリングな緊張を維持しつつ展開され得たのではなかったろうか。
 『インプロヴィゼーション・テクノロジーズ』に代表されるクールな体系的探求と、「エンドレス・ハウス」に見られるアナーキーすれすれのパフォーマンス。その両極を大きな弧を描いて往復しながら、フォーサイスとフランクフルト・バレエ団はいまもおそるべきスピードで前進し続けている。それを進化と呼ぶのはけっして誇張ではない。問題があるとしたら、それが人間の進化なのか、人間ではないものへの進化なのかということだろう*[5]。いずれにせよ、フォーサイスが舞踏という狭いジャンルをはるかに超えた次元で来世紀への扉を開こうとしていることを、私はけっして疑わない。そう、それは芸術の21世紀を垣間見ることのできる、きわめて稀なショー・ケースの一つなのである。

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