講談社文芸文庫『原本 日本近代文学の起源』への序文

この本を初めて手にした読者に説明しておきたい。私はこの本を単行本として一九八〇年に出版し、八九年に文芸文庫版を出した。そして、二〇〇四年に、これを大幅に改訂して『定本 日本近代文学の起源』(岩波書店)を出版した。この間の経緯はつぎのようなものである。
私が本書に書いたようなことを構想したのは、一九七五年から七七年にかけて、イェール大学で明治文学について教えていたときである。だが、私はこれを英語で出版することはまったく考えていなかった。その時期、英語での出版を考えていたのは、『マルクスその可能性の中心』のような哲学的仕事のほうであった。一方、『日本近代文学の起源』は、文芸雑誌に連載したエッセイであり、日本の文脈でのアクチュアルな批評の仕事であった。私はそれ以上の望みをもっていなかったのである。
ところが、一九八三年に英語への翻訳の申し出を受けた。私はむしろ当惑した。このままでは外国人が読んで理解できないと思ったからである。そこで、翻訳を許可したものの、大幅に改稿するという条件をつけた。が、その後音沙汰がないままに、八〇年代末に突然翻訳草稿が送られてきた。私は改稿に備えて幾つかの論文を書いていたのだが、もう遅かった。この時点で改稿することは翻訳者に気の毒であったから、最後に「ジャンルの消滅」という一章を加えるにとどめたのである。この章は、近代小説がそれ以前の多様なジャンルを消滅させたこと、その中で、漱石が「写生文」によって抵抗したこと、そのため、漱石の作品が多様なジャンルに及んだこと、などについて論じたものだ。これによって、漱石がロンドンから帰国したあたりから書き始めた本書を、漱石論をもって締めくくることにしたのである。
その上で、アメリカ版への長い「後書き」(1991年)を付した。この本が書かれた歴史的文脈を外国人に説明しようとしたのである。しかし、そのとき、私自身70年代に本書を書いていた時点では考えていなかった事柄を、いくつか発見した。たとえば、私は明治日本におこった「風景の発見」や「言文一致」などについて考察したのだが、ふりかえって気づいたのは、私が考察したのはすべて、近代の国民国家の確立において生じる問題だということ、ゆえにどの国でも生じる問題だということであった。たとえば、「言文一致」に関して、韓国や中国でおこったことはある程度知っていた。しかし、ギリシアやブルガリアの読者から、彼らの国でほぼ同じ時期に同じようなプロセスがあったことを知らされたときには、驚いた。
私は通常、自分の本を読み返したり、再考したりはしない。書いたことも忘れてしまうほどだ。が、この本にかぎって、それ以後も、何度も読み返し考え直した。一つには、各国の翻訳者が序文を求めてきたからだが、私のほうでも、出版される国を念頭において読み返すと、そのつど、本書から、それまで考えていなかったことを発見することが多かったからだ。それは、本書がもともと連載エッセイとして直感的に書かれ、体系的にまとまったものでなかったからかもしれない。私はいわば原本を材料にして、「序文」の名の下に新たな論文を書いたわけである。それは以下の三つである。

ドイツ語版への序文(一九九五年)
韓国語版への序文(一九九七年)
中国語版への序文(二〇〇二年)

こうして、『日本近代文学の起源』は、いわば「生成するテクスト」としてふくらんでいった。そこで、私は以上を収録し、さらに、全体に大幅に加筆したものを「定本」として出版したのである。これは量的に、「原本」の倍ぐらいになる。
「定本」を出すとき、私は本書を絶版にするつもりだった。しかし、それが「文芸文庫」で長い間(4?刷)出版されてきたことを勘案し、また、原本にも独自の歴史的価値があることを考慮して、当初付いていた解説・解題を割愛し、原本のみを再出版することにしたのである。ここから、「定本」にいたるまでの変容に、ここ三〇年間の世界の変容が刻まれている、と思う。ただ、「原本」と「定本」の併存が、読者の混乱を招くことがないことを願っている。