壊れゆくアメリカ

ジェイン・ジェイコブズ 著 | 中谷和男 訳

著者は1950年代に、ニューヨークのジャーナリストとして高速道路の建設や都市開発に反対する運動をおこし、さらに60年代には、近代の都市計画を根本的に批判する理論家として注目を集めた。その核心は、モダニズム以来の都市計画にある、ゾーニング(住宅地とオフィス街を分ける)というアイデアへの批判にある。都市は、雑多なもの、古いものと新しいものが集中的に混在しているときにこそ、活発で魅力的なのだと、著者は主張したのである。
本書は2006年に亡くなった著者の遺作となったエッセー集である。著者が90歳に近づいて活発に考え、かつ活動していたことを知って、私はあらためて感銘を受けた。本書には格別に新しい考えはない。著者が50年間いい続けてきたことと同じだといってよい。しかし、同じでないのは、50年前と現在である。
現在、多くの人々は昔の都市を覚えていない。たとえば、ロサンゼルスに、かつての東京と同様、路面電車が街中を走っていたといっても、誰も信じないだろう。「モータリゼーション」が都市や都市の生活を根こそぎ破壊したのに、もうそのことに気づくことさえできない。過去を覚えていないからだ。そのような集団的記憶喪失が、各所におこっている。
著者は、大学改革についても、都市計画と同じ問題を見いだしている。たとえばアメリカでは、大学教育をより効率的にするために、ムダと見える学問、特に、人文学を切り捨ててきた。日本でもその真似(まね)をしている。その結果、一昔前なら、誰でも知っているべきだった文学を、今、ほとんどの人が知らないし、知らなくても平気である。
本書の原題は「暗黒時代が近づいている」という意味であるが、暗黒時代とは、ローマ帝国が滅んだあとのゲルマン社会で、ローマの文化がすぐに忘却されてしまったことを指している。そのような事態が現在おこりつつある、という著者の予感に、私は同意する。それをひきおこしているのは、いうまでもなく、グローバルな資本主義である。

柄谷行人 |2008.8.10 |朝日新聞 書評欄掲載