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毎年7月14日の革命記念日を回ったあたりで、フランスのブルジョワは一斉にヴァカンスに出かける。今年は直前のワールドカップの優勝でフランス中が熱狂した挙げ句、夏休みになだれ込んだ。その流れに便乗してパリを脱出し、この原稿もスイスの山の中で書いている。好天の山荘のバルコニーからは氷河を抱くアルプスの頂が見える。頂の向こうはもうイタリアだ。 |
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友人と小さな哲学の本を書くのが山篭りの目的で、連日の仕事ぶりはとても「ヴァカンス」などといった優雅なものではないのだが、テレビもラジオもない上にろくに新聞も読まない浮き世離れした生活を続けているので、時事的な話題にはすっかり縁遠くなっている。おい、何か面白い話でもないか、と友人をせっつくと、ブルデューの近刊を貸してくれた。『パスカル的省察』という本だ。 |
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「仕事をしている時には私はそれを判断することができない。画家たちのように少し距離をとらなくてはならない。但し、余りとりすぎないようにして。」――このパスカルからの引用を掲げて、ブルデューはこれまでの自分の仕事を振り返り、その原則を、読者に対して、また自分自身に対して明らかにしようと努めているのだが、この本の一番の特色は社会学の立場からなされる哲学に対する辛辣な批判にある。 |
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ブルデューはプラトン以来の哲学が暗黙の前提としてきた社会的な条件として、「skholeを挙げる。このギリシャ語は、世の中の切迫した必要から自由で、世の中に対して余裕のある自由な関係を結ぶことを許す時間、「余暇」を意味するのだが、同時に「学校」という意味も持つ。彼の哲学批判の要は、普遍的に妥当する真理を語ると称する哲学が、実際は「学校」という「余暇」を約束された空間に棲息する人間の偏見の表現に過ぎないのではないか、という点にある。哲学者たちがどれほど世の中に対して超越的な視点を誇ったところで、「君たちはもう船に乗っているではないか」(パスカル)というわけだ。 |
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哲学の言説の意味するところは、哲学の言説を生む実践なりその場によって規定されている、という論旨は、マルクス以来の哲学批判の常套だ。哲学史研究からポストモダンまで、哲学が完全に「学校」の中で制度化され、高いステータスを与えられているフランスでは、理論を語ることがそのまま政治的・社会的実践であるかのような錯覚を与えている、という彼のフランス哲学の観念性に対する批判は確かにあたっているだろう。彼の素朴でさえある批判が、多くの聴衆を得るということ自体がそれを裏付けているとも言える。 |
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ブルデューに対して、哲学に対して外在的な批判に過ぎないとか、社会学の視点はそれでは「余暇」から逃れているのかと反論することは容易だ。フランスの知的分業体制を背景に、社会学の立場に固執してみせる彼の言説自体、「実践の場の論理」にからめ取られているということも可能だろう。ただ自分の試みを「自己破壊的」と呼ぶブルデュー自身がそういった批判を十分承知しているはずだ。しばしばウィトゲンシュタインなどを参照しながら進められる議論を、むしろ哲学・哲学者の自己吟味ととるなら、そこに大きな異論の余地はないように思われた。 |
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ただ、「余暇」に「哲学」する人間としてあえて言うなら、問題は自分の実践が背負わざるを得ない社会的そして歴史的な限定を批判した上で、その批判を、社会分業の網目を横断するような実践に向かってどう開いていくかにかかっているのではないか。その横断こそが、「普遍」を具体的に考えることを可能にするように思える。そしてその横断のためには、社会の「余」り者たる「哲学」者が現在享受することを許されている異なったリズムが、どこかで必要になるのではないか。 |
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繰り返して言うが、「哲学」する「余暇」は決して優雅なものではない。 |
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[編集部註]
2002年1月23日ブルデューの訃報を受け、王寺氏には「ブルデューの死」というテクストを新たにWeb
Critique に書いていただいた。「余暇と哲学」の前書きとして読んでいただければ幸いである。 |
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