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2002年1月23日、ピエール・ブルデューが亡くなった。私はブルデューの良い読者であったことがないので、ここで彼の生涯と著作を振り返り、二十世紀後半のフランスにおいて最も多作な社会学者に追悼の意を表する資格はない。文学や哲学に携わる私にとって、書かれたもの、あるいは書くことの持つ射程を社会学的な分業の問題に縮減してしまうかのようなブルデューの仕事は刺激的なものであったことはなかったし、学校を政治的・社会的な差別の再生産の装置としてみる彼の数多の著作についても、それがいかにも「まっとうな」批判であることを認めながらも、国家が学校をテクノクラートの養成機関として抱え込み、厳然と存在する「階級」の保護育成に励んでいるフランスでは余りにも常識的な見解にすぎないのではないかという感をぬぐえなかった。さらに、90年代後半の社会運動への積極的なアンガージュマンについても、明からさまにサルトルに言及を求めながら「全体的知識人」の復権を求め、新自由主義の批判を即座に「ヨーロッパ福祉国家」の擁護に結びつけてしまうブルデューの言説には、その政治的・知的な誠意を尊重しつつも、むしろ疑問を感じることの方が多かったのだ*[1]。 |
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ただし、フランスのジャーナリズムの追悼報道の全般に見られるように、ブルデューの社会学者としての業績に一定の敬意を払いつつ、晩年のアンガジェする知識人としてのブルデューに冷笑的な一瞥を投げかけるといった態度には警戒が必要であると思う*[2]。ブルデューにとって、おそらく社会学者とアンガジェする知識人は決して別のものとしてあったのではない。たとえば、学校や国家エリートや哲学者に対して向けられたブルデューの批判は、哲学教授資格を持つ元ノルマリアンとしての自己自身の履歴と切っても切り離せないものだろう。アクティヴィストと化したブルデューが野宿者を率いて母校の高等師範学校(エコール・ノルマル)を占拠したのは1998年のことだったが、その余りにも象徴的なアクションも社会学者の自己批判と結びついていたと考えれば今では納得がいく。学校エリートとしての哲学者から、哲学の批判者としての社会学者へ、さらにコレージュ・ド・フランスの社会学教授からアンガジェする知識人へ。その極めて個人的な自己批判=自己限定の企みは、それゆえにいかにもフランス的な限界を持たざるをえなかったと思われるのだが、しかしそれを判断するのは私の任ではない。自らをマルクシストであると同時にそれ以上にパスカリアンだ、と称していたというブルデューの死に際して、かつて『パスカル的省察』という書物に触れて書いたエッセーを以下に再録して、私の――ささやかな――オマージュにかえたい。 |
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[編集部註]
このテクストはブルデューの訃報を受け、王寺氏に「余暇と哲学」(週刊読書人初出・
批評空間アーカイヴ収録)の前書きとして新たに書いていただいたものである。 |
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