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王寺賢太【懐かしさ/初々しさ――J.P.リモザン『Tokyo Eyes』を観る】
 長い余暇から帰ってきたパリで、封切られたばかりの『Tokyo Eyes』を観た。監督はジャン=ピエール・リモザン。吉川ひなのと武田真治を主人公に、傍役には水島かおり、杉本哲太、ビートたけしが配されるという魅力的なキャスティングだ。
 映画の冒頭で、東京の街を駆け抜けながらミニカメラでヴィデオを撮影する若い男を追って、映画のハンディカムも動き出す。彼は視界を歪ませる異様な眼鏡をかけて、次々に発砲事件を起こすその張本人なのだ。続いて、この三面記事の主役を電車の中で見かけた少女が彼を追いかけ始める。ゲームセンターで軽々と『ストリートファイター』をクリアしてみせた男は、「ひなの」と呼ばれる少女に向かってそっけなく「K」と名乗るだろう。壁いっぱいにLPのつまった彼の部屋で、忽然と現れたDJがアレンジした音楽にあわせて二人が踊りだす頃には、私はもうすっかり懐かしさで胸が一杯になっていた。
 「ひなの」の追跡と恋愛の軌跡にそって、観客は「薮睨み」と名付けられた三面記事の容疑者のモンタージュ写真の背後に、スノッブで、自閉的で、しかしなおピュアな正義感とも無縁ではない、一人の心優しいポストモダン少年(?)の表情を見い出す。だが、クリシェと化したイメージの向こうに生々しい被写体を見い出すというプロセスは、久々の劇映画を東京で撮ることを決断した映画作家自身が経過したプロセスでもあったはずだ。カメラはひたすらに登場人物の表情−というよりも「眼」だろうか−に執着して、住宅街の路地をくぐり抜け、電車やバスにのって街中を通過していく。その只中にあって全く遠近感を持ちえない世界、それが『Tokyo Eyes』の示す東京なのだ。そこではスノッブで孤独な若者たちがイラン人の家族やヤクザと共存する。ビートたけし扮するヤクザのまなざしの先には、街中の通りから排除されたホームレスたちの存在もとらえられるだろう。
 その遠近感の欠如の印象は、ともかく演技するということができず、素のままで画面に定着されているといったかのような「ひなの」の存在によっても増幅される。彼女は明らかにトチりまくっているのだが、その度に画面の中でキャッキャッ言ってはしゃぎまわっている彼女の脱線ぶりは、なんとしてもこの映画のなかに場所を持たなくてはならない。またラスト近くで、東京の「一番高いビルの喫茶店」で、やってこない待ち人を求めながら、ゆったりと湾曲した展望台の窓ガラスに腕を開いてしなだれかかり、ちょうど両手で他人の体の輪郭をたどるようにしながらしゃがみ込む「ひなの」。ガラスの向こうに霞んだ東京の街とぎこちなく動く「ひなの」の逆光のシルエットのコントラストは、この映画の白眉とも言える美しいシーンだ。
 ちぐはぐに脱臼した登場人物達の遭遇と行き違いを一つの作品にまとめあげる原理は、『Tokyo Eyes』においてなによりも様々な「アイ」の連鎖に求められている。「K」と「ひなの」の出会いと、そのまなざしの交錯から始まる恋だけが問題なのではない。自分の書いた脚本を日本語に翻訳し、その日本語をもう一度ローマ字に転記した台本をもとに演出したというリモザンが、例えば coin du paradis(「天国の片隅」)とフランス語で呼ばれる恋人たちの身ぶりが日本語で「相合い傘」と呼ばれることを知って驚喜したのは想像に難くないし、ヤクザの暴発させた弾丸を受けて傷ついた「K」にはフランス語の「Aie ! Aie !」という苦痛の叫び声こそがふさわしいように思える。そして、それらすべての「アイ」の交錯と横滑りは、ちぐはぐな東京の印象をあくまでも忠実に視界に収めようとするカメラ・アイによって、ちぐはぐなままにフィルムに定着されているのだ。
 『Tokyo Eyes』はどこか懐かしい映画である。しかしその懐かしさは、ただ映像の中の東京の街や俳優たちに思い出を掻き立てられるところから来るのではない。この映画は、カメラを手に街に飛び出していったヌーヴェルヴァーグの映画たちを反復しようとする意志によって貫かれている。懐かしさはなによりもまず、軽快でしかも大胆な、その初々しい「眼」からやってくるのだ。

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