Critical Space Archive

王寺賢太【図書館を突き抜けよ】
 学期初めの十月にあわせるようにして、この八日、パリ市トルビアック地区にある新国立図書館で研究者向けのセクションが開かれた。千百万の書物と、百万の視聴覚資料、八万六千の電子ファイル化された資料を擁する膨大なアルシーヴ――といったところで今回開かれた研究者セクションの具体的なイメージを伝えることは難しいだろう。十五世紀末の王立図書館の創設以来、大革命期における貴族や僧院の蔵書の差し押さえ、さらには出版物の納入の法制化などを経て着実に蓄積され続け、ついにリシュリュー通りの旧国立図書館の建物容積をあふれでてしまった資料群の圧倒的な物量を実感するためには、まずセーヌ左岸にそそり立つ四本の塔の真ん中に身を置いてみなければならない。
 「時の塔」、「法の塔」、「数の塔」、「文の塔」と名づけられたそれらの塔の一つ一つは、ほぼ三十階建ての鍵括弧のかたちをしたガラス張りのビルであり、それぞれが哲学・歴史・人文科学、法学・経済学・政治学、科学・技術、そして文学・芸術にあてられた書庫として、サッカースタジアムの程度の広さの敷地から立ち上がる図書館の巨大な直方体の輪郭を確定している。読者たちはちょうど台座をなすように直方体をとりまいている急勾配の階段を上りきると、入館の前には必ず一度だだっ広い台座の上の平面で、四つの巨大な鍵括弧の中の空間をくぐらなければならない。誇大妄想狂的なモニュメントを次々に実現しては自らの名声の不死を図った建設推進者の前大統領の意志を反映するように、過去からの記憶の重みを永遠の権力の象徴として立ちあげて、図書館は威圧的かつ冷笑的に利用者を迎える。
 むろん、画期的な容量の拡大と情報処理・通信に関するハイテクの導入を特色とする新国立図書館は、「知」の「民主化」の側面を持たないわけではない。しかし、この図書館がなお威圧的かつ冷笑的に映るとすれば、そこに何らかの排除の論理が働いているからと言うより、あらゆる「知」を飲み込んで平然としている国立図書館という装置の「知」一般に対するシニカルな無関心が、四本の塔の形を取ってのしかかってくるからだ。そもそもこれほどまでに徹底し、制度化された「知のカタログ化」が考えられるだろうか。このような「知のカタログ化」が、実は近代国家の存在のありようと密接に結びついているものであることは、例えば、十七世紀前半のフランス絶対王制勃興期に王立図書館長であったガブリエル・ノーデが、キリスト教帝国の、あるいは「聖書」のくびきを離れようとするフランス王国のサヴァイヴァルのために、マキアヴェリ流の「国家理性」の教説を流布したことを思い起こせば納得される。つまり、図書館とは、同一平面上に利用可能な「知」を並列し、それらのどれを聖典とするわけでもなく状況に応じて有効な「知」を君主に提供する、そういったプラグマティックな「国家理性」に奉仕する装置なのである。とすれば、図書館の中で地道に継続される「研究」の類は、いまでもどこか君主への勤労奉仕に似ている。たとえその君主が「公論」という偽名を持つようになったとしても。
 だが、一方で、「知」に対するシニカルでプラグマティックな態度に、つまりは「国家理性」に最も頑強に抵抗しうるのは、図書館の中での「研究」を経過してきたもののはずだ、という確信がないわけではない。図書館の中での「読む」という営みは、テクストに対する程良い距離をとることを許さない、ある種絶対的な厳しさを帯びているからだ。テクストの差し出す一語一語に細心の注意を払い、あくことなく古文書を読みすすめながら、どうしてもなお確定することの出来ないテクストの身ぶりの揺れのところまで降りていく、――そのテクストの快楽と苦痛の経験は「国家理性」からのまなざしなどによって決して回収されうるものではないのだ。
 巨大な鍵括弧のくびきから抜け出るためにこそ、われわれは図書館を突き抜けていかなければならない。

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