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前号でも触れたとおり、坂本龍一のオペラ『LIFE』が9月に初演された。私自身、主にコンセプトの面でアドヴァイザー役を務めたので、中立的な立場から批評することはできないが、クリエーターの側に身を置いていたから見えることもあったので、あえてそれについて書いておきたい。 |
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『LIFE』は、20世紀の歴史と音楽史の総体を凝縮してみせるとともに、21世紀に向けて共生系としての地球というヴィジョンを示そうとする、大規模かつ高密度のマルチメディア・パフォーマンスである。もしかすると、もっと密度を落としたほうがスマートになったかもしれない。しかし、20世紀が終わろうとするいま、そのエッセンスを凝縮して21世紀に手渡そうとする試みは、決して無意味ではないだろう。また、とくにフィナーレにかけて、オペラというよりオラトリオのような趣きで宗教的な救済のヴィジョンに傾斜していく、そこも、もっとクールに終ったほうがスマートになったかもしれない。しかし、20世紀にはかくも多くの希望と生命が失われた、それを自分の音楽で少しでも浄化したいという音楽家の気持ちはよくわかるし、そこから結果的に息を呑むほど美しい音楽が生まれることになったことも事実なのである。 |
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それだけではない。このフィナーレの前には何人かの語りがフィーチャーされており、それをよく聴くと、むしろ安易な救済などありえないということがわかるようになっている。 |
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食われた者が食った者を糾弾する(それは、ガリラヤ湖の魚がイエスを、マメがシャカを糾弾するところまでいく)ことは、必要ではあっても十分ではない、さらにそれを超えた存在の革命を目指さねばならない、と説く埴谷雄高。だが、彼は自作の『死霊』でもそれがうまく書けていないことを認める。 |
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洒落た口調で一篇のメルヘンを語ってみせるローリー・アンダーソン。だが、それはナチスからの亡命の途上で自ら生命を絶ったベンヤミンが絶筆「歴史の概念について」で形象化した「歴史の天使」――過去の廃墟を見つめながらも進歩という風に煽られて未来へ吹き飛ばされてゆくメランコリックな天使の物語なのだ。 |
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ジプシー(ロマ)の少女の「踊るのよ! 踊るのよ! でないと、私たち、生きていけない」という言葉や、ドイツで働くトルコ人が故郷の老母に聞いたという「泣かないで。歌うの」という言葉を織り交ぜて、マイノリティがダンスや音楽を通してはじめて生き延びることもあるのではないかと自問するピナ・バウシュ。だが、その言葉以上に印象的なのは、その前の長い沈黙、そして「わからないわ」という溜息まじりの言葉だろう。 |
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そして、ベルナルド・ベルトルッチの言葉を朗読するロバート・ウィルソン。その言葉とは、文字通り「救いなどないと発見することこそが救いなのだ」というものなのである。 |
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この4人の語りのあと、巨大なスクリーンに文字が乱舞し、それがついに文章らしき形になったかと思うと急速に抹消されて空白に戻るというシークエンスがある。この文章は実はサルマン・ラシュディの掌篇である。この部分に関して、制作の段階で大きな問題が発生した。私は坂本龍一個人に対するアドヴァイザーに過ぎず、もう一方の当事者である主催の朝日新聞社・テレビ朝日とは直接関係がないので、あくまで坂本龍一から聞いた話としてここに記録しておく。 |
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ラシュディは、『LIFE』のために『千夜一夜物語』に出て来そうな掌篇を書いた。そして、彼自身による朗読のヴィデオ撮影も行なわれた。その後になって、朝日の側から、公演の安全が保証できないので、ラシュディのパートは削除してほしい、しかも、朝日の側の要請ではなくクリエーターの側の判断でそうしたという形にしてほしい、という申し入れがあった、それぐらいなら公演を中止したほうがいいと思うがどうか、というメールが、坂本龍一から私のもとに舞い込んできたのである。 |
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もちろん、坂本龍一が激怒したのは当然だった。ラシュディは世界でもっとも優れた作家のひとりであり、それにもかかわらず『悪魔の詩』のためにイスラム原理主義者から生命を狙われている彼の表現活動をできるかぎり支援することは、世界の主要なメディアの常識と言ってよい。現に、彼の本は世界中で売られている(日本の洋書店も例外ではないが、訳者が現実に殺された唯一の国である日本では、他の国と違って彼の作品が邦訳されなくなっていることも事実である)。ラシュディ自身、U2のコンサートに飛び入り出演したこともあるし、最近ロンドンで坂本龍一と同じステージに立ったこともある。たしかに本人が複数回連続出演するとなると危険かもしれないが、ヴィデオ出演が危険だとはとても考えられない。また、仮に多少の危険があったとしてもあくまで表現の自由を守るのが、メディアとして当然の態度ではないか。 |
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とはいえ、かつてテロによる痛ましい被害を出した記憶をもつ朝日が、公演の安全に責任をもつ主催者として、できるだけ危険は避けたいと考えるのも、まったく理解できないわけではない。そのことも考慮し、また何より表現としての質を考えて、われわれとしては、ラシュディのヴィデオは使わず、現行の表現形態をとることにした。巨大なスクリーンに文字が乱舞する。その断片をパフォーマーがなんとか読もうとするが、彼の声はノンセンスな言葉の連なりにしかならない。結果的に、それはきわめてスリリングなシークエンスとなった。 |
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個人的には「検閲に譲歩した」という批判があれば甘受すべきだと思う。ただ、「共生」と言っても、宗教対立などからそう簡単にはいかない、現に日本ではラシュディのテクストをそれとわかる形で提示することさえ難しいというのが現実であり、現行の表現形態はそのような現実を含み込んだものになりえているのではないか。たしかに、それは傷といえば傷だ。しかし、『LIFE』という壮麗な美の結晶は、そのような傷をもつことでいっそうアクチュアリティを増すのだと思う。 |
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