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この九月、坂本龍一のオペラ『LIFE』が初演される。その制作にあたって主にコンセプトの面でアドヴァイザー役を務めてきた私も、オペラというジャンルのもつ可能性についていろいろ考えさせられるところがあった。 |
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オペラというジャンルは、17世紀初めにイタリアで始まり、19世紀にヴェルディやヴァーグナーによって頂点に達したとされる。その後、20世紀に入って、プッチーニの『トゥーランドット』やベルクの『ルル』といったオペラがみな未完に終わったことは、このジャンルの運命を暗示しているかのようだ。もちろん、現代でもオペラは書かれ続けている。だが、一定の筋をもったドラマを歌手たちが歌い演じるという旧来のオペラの形式は、今ではほとんどアクチュアリティを失ったと言えるのではないか。 |
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そのような認識に基づいて、『LIFE』は、旧来のオペラの形式を無視し、オペラという言葉をマルチメディア・パフォーマンスと読み替えることによって、まったく新しい表現の形を切り開こうとする。会場には巨大なスクリーンがいくつも設置され、そこに表示されるさまざまな映像やテクストを音楽やダンスのライヴ・パフォーマンスと組み合わせることによって、多面的な表現が展開されることになるだろう。 |
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『LIFE』の内容は、第1部で20世紀の激動の歴史を振り返り、第2部で21世紀に向けて共生系としての地球というヴィジョンを示そうというものだ。そこで、第1部では、たとえばチャーチルやオッペンハイマーの歴史的な演説が引用される。歌手がチャーチルなりオッペンハイマーなりを演ずるのではなく、ドキュメンタリーの映像や音声がそのまま引用され、音楽と組み合わされるのである。ちなみに、音楽の面でも、20世紀のさまざまな音楽様式を精密にシミュレートしていくことで20世紀音楽史を総括するという坂本龍一の試みは、かつてなく多様で大規模な音楽を生み出すことに成功していると言えるだろう。 |
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第2部に入っても、そのような方法が変わることはない。リン・マーギュリスが共生進化について語ったり、ジェイムズ・ラヴロックがガイア(共生系としての地球)について語ったり、そのレクチャーがそのまま引用されて、音楽に重ね合わされるのだ。もっとも、音楽自体は、20世紀音楽史が60年代末に飽和点に達したという認識ゆえに、歴史的な流れから地理的な広がりに向かっていくだろう。そこでは、坂本龍一特有のアダージョにのって、多様なエスニック・ミュージックの競演が展開され、自然のアンビエント・ノイズがそれに彩りを添える。 |
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最後をしめくくる第3部は、一種の浄化と救済のヴィジョンを示そうとするものだ。そこでは、無限の未来に存在の革命を幻視する埴谷雄高、「歴史の天使」というヴァルター・ベンヤミンの概念をフェアリー・テイルとして語ってみせるローリー・アンダーソン、マイノリティがダンスや音楽を通じてはじめて生き延びることもあるのではないかと自問するピナ・バウシュ、救いなどないと発見することこそが救いなのだというベルナルド・ベルトルッチのメッセージを読むロバート・ウィルソンといった、さまざまな人々の声が交錯する。そして、最後に登場し、縁起説に基づいて、短期的・局所的な観点から地球を害することを戒めるダライ・ラマ。だが、そのいずれも決定的な答えというわけではない。あえて言うならば、異なった答えが共存しているということ自体が、共生であり、救済である。しかも、それだけではたんにバラバラに終わってしまうだろう全体に、音楽が実に見事な統一感を与えているのだ。実際、序曲でドビュッシーやストラヴィンスキーの様式になぞらえて導入されていた旋律が、ここで大きく歌い上げられ、最後のバッハ風のコラールにつながってゆく、そのパッセージは感動的というほかない。 |
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それにしても、このようなコラージュ的な性格をもつマルチメディア・パフォーマンスをオペラと呼ぶことができるのか。たしかに『LIFE』は一定のストーリーをもったドラマではない。しかし、そこには単純なストーリーを超えたドラマティックな対立がいくつも埋め込まれているのだ――第二次世界大戦のドキュメンタリーと合わせて、「今こそ来れ、火よ」というヘルダーリンの一節を読むハイデガーの声が響き、アウシュヴィッツやヒロシマの記憶と合わせて、「そこに灰がある」というデリダの声が響く、というように。いわば、それは、20世紀の歴史全体を、音楽と映像を通じたドラマとして提示しようとしているのだ。それをオペラと呼ぶかどうかは定義の問題に過ぎない。確かなことは、そこで、音楽と映像を複合的に組み合わせた新しい表現の形が切り開かれたということなのである。 |
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