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東京のワタリウム美術館で開かれている「エンプティ・ガーデン」展は、庭という概念に対する現代美術からのさまざまなアプローチを示す試みである。なかでも、単純な音響装置によって空間の性格を微妙に変化させてみせるカールステン・ニコライのインスタレーションは、きわめて興味深い。この展覧会に際し、音楽の領域ではnotoという名前で活躍するこのアーティストと、かねてから同じような傾向の音楽で世界的に知られ、パフォーマンス集団ダムタイプの音楽でも声価の高い池田亮司のコラボレーションによるコンサートが開かれ、それに先立って講演した私は、彼らに代表される傾向をテクノミニマリズムと名づけた。では、テクノミニマリズムとミニマリズムはどう違うのか。 |
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ミニマリズムは1960年前後に現われた傾向である。その時点での芸術の問題は、イヴ・クラインのモノクローム絵画やジョン・ケージの沈黙の音楽のように一様な混沌にまで行き着いた後、そこからどう脱出するかということだった。そこで、最小限のパターンの併置から多様な造形表現を生み出そうとするミニマル・アートや、最小限のパターンの反復から複雑な音楽表現を生み出そうとするミニマル・ミュージックが現われたのである。 |
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では、そういう60年代のミニマル・ミュージックと90年代のテクノミニマル・ミュージックはどう違うのか。かつてのミニマル・ミュージックにおいても、独自の楽器を作ったり、テープに録音した語りを反復したり、といった実験はなされていたが、フィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒのように後に有名になった作曲家に関するかぎり、その音楽はおおむね五線譜に書ける――つまり平均率音階に属する音と規則正しいリズムを要素としている。ところが、テクノミニマル・ミュージックは違う。ニコライの設立したレーベル名notonが「非楽音」を意味する英語とドイツ語の合成であるように、そこでは、物理的な意味で最小限の要素である正弦波や白色雑音、「ピッピッピッ」とか「ザーッ」とかいう音が素材とされ、まったく自由なリズムで組み合わされるのだ。 |
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そういう違いは原理上の違いにもつながっていくだろう。かつてのミニマリズムは「知覚の現象学」(メルロ=ポンティのタイトルを借りれば)に基づいていた。単純なパターンの機械的な反復でも、聴いているうちにたとえばモワレ模様のように感じられるようになり、やがて意識を冥想的な状態へと誘う、というわけだ。しかし、現在のテクノミニマリズムは、そうした現象学的主観の水準にとどまらず、いわば「知覚の神経生理学」にまで到達しようとする。たとえば、可聴域ぎりぎりの高周波や低周波を使うとか、位相が逆の二つの音を同時に鳴らすことで音が聞えないようにするとかいった実験は、コウモリのような動物の生態観察や、旅客機のノイズ・キャンセリングの技術開発と同じ精神で行なわれているのだ。それは、聴衆をトリップに誘うどころか、あくまでもクールな覚醒状態に置こうとするだろう。 |
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そういう違いは、参照される文化の違いにもつながっている。かつてのミニマリズムは、近代以前の民俗文化に強い関心を示した。民俗音楽における単純なパターンの反復は、ミニマル・ミュージックに大きな影響を与えたのだ。他方、現代のテクノミニマリズムは、コンピュータ文化から発生した。楽譜も読めず、楽器も弾けなくても、手軽になったコンピュータと自分の感覚だけを武器にして、音楽を作り、演奏することができる。しかも、定型的なポップ・ミュージックを量産するのではなく、旧来の音楽の枠組みにとらわれない徹底した実験を試みることができる。民俗文化への郷愁がミニマル・ミュージックを生み出したとすれば、一見文化とは無縁なところで育ったテクノ・キッズの実験がテクノミニマル・ミュージックを生み出したのである。 |
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こうしてみると、テクノミニマリズムがこれからどれくらい完成度の高い音楽を生み出すことになるか、そもそもそれについて音楽的完成度を云々できるかは、まだわからないというべきだろう。だが、それは現時点でもっとも徹底した実験なのであり、そのようなものとして世界的に注目されているのである。 |
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そういえば、テクノミニマリズムに近いグループに<Panasonic>というノルウェーの音楽集団があり、商標権の問題でいまは<Pansonic>と改名している。商標権がビジネスの上で重要な問題であることはわかるが、もう少し鷹揚な対応ができなかったものかと思う。世界の先端を行くテクノミュージック・グループに名前を借りられるというのは、エレクトロニクスを重要な柱とする企業にとって、むしろ名誉というべきではないだろうか。 |
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