Critical Space Archive

パロディを超えて――現代美術の両極
 美術の教科書で見たことのある「泰西名画」。しかし、よく見ると、どこか変だ。そう、人物の顔が日本人の顔に入れ替わっているではないか。
 そんな作品を集めた展覧会が東京都現代美術館で開かれている。「空想美術館」と題する森村泰昌の回顧展だ。この作家は、モデルになりすまして、名画のなかに入り込んでしまう。男女の壁を乗り越えるなど朝飯前。いざとなればセザンヌのリンゴにでもゴッホのひまわりにでもなってしまうのだ。単純なアイディアのようで、それを実現する映像合成の技術、そして何よりもどんな苦労もいとわぬ執念には、驚嘆するほかない。
 これらの作品は、とくに欧米で高い評価を受けてきた。その理由としては、西洋美術史のパロディであるため、西洋人にもわかりやすいこと、しかも、笑うべき東洋人の肉体によってパロディが行われるため、建前上は西洋中心主義批判の例として評価しつつ、本音では安心して見ていられるということが挙げられるだろう。画面を見て訳知りめいた微笑みを浮かべ、性(ジェンダー)や人種の相対化について洗練された意見を述べてみせる。そうやって知的な自己のアイデンティティを確認し、安心して美術館を後にできるというわけだ。
 そういう欧米での評価が逆輸入されることで、森村泰昌は日本でも現代美術を代表する作家として評価されるようになった。現に、こうして東京現代美術館が大規模な回顧展を開いているわけだし、出品作品を見ても、その多くがすでに全国各地の美術館に収蔵されている。だが、これはいささか奇妙な現象ではあるまいか。
 もちろん、作家自身は、アイロニカルな戦略ではなく、倒錯的な衝動に駆られて、「着せ替え」のゲームを続けているに過ぎないのだろう。しかし、それを現代美術を代表する作品として評価し、知的な隠語(ジャーゴン)を駆使して論じてみせるというのは、さらなる倒錯と言うべきだ。私の見る限り、それは、過不足なく読み解き、笑ってすませるものであるかぎりにおいて、きわめて手の込んだジョークではあっても、芸術ではない。そのようなゲームの枠を超え、見る者のアイデンティティを揺るがせるものだけが、芸術と呼ぶに足るのではなかったか。
 ところで、森村泰昌と同じく、京都市立芸術大学で写真家アーネスト・サトウに学び、世界的に高い評価を受けてきたアーティストがいる。マルチメディア・パフォーマンス・グループ「ダムタイプ」の中心だった古橋悌二である。自ら出演した最後のパフォーマンス<S/N>で、彼は「日本人・ホモセクシュアル・HIVポジティヴ」というラベルを身体に付けて登場する。それは演技ではない。彼自身についての真実なのだ。そして、パフォーマンスは、そのようなラベルを剥ぎ取り、極限においては消滅することを目指して、展開されてゆくのである。
 その古橋悌二が94年にキャノン・アートラボの一環として個人名で製作した作品<LOVERS>が、5月中旬ひさしぶりに東京で再公開された。暗い部屋に入ると、周囲の壁を裸の男女の映像がゆっくりと行き来している。やがて、やはり裸の作者自身の映像が現れ、こちらのほうに手を差し伸べるかに見えたかと思うと、やがて自らを抱くようにして後ろに倒れ、消え去ってゆくのだ。コミュニケーションの不可能性を、しかもその瞬間においてなお明滅する愛への希望を描いて、この作品は見る者を静かに揺さぶらずにはおかないだろう。
 森村泰昌の作品がアイロニカルに過ぎるとすれば、古橋悌二の作品はナイーヴに過ぎると言うべきかもしれない。しかし、それが実に美しい遺言であることは否定できないだろう。そう、この作品の公開から一年あまり経った95年の冬、アーティストはAIDSのためにわずか35歳の生涯を閉じたのである。
 しかし、かれの残した作品への評価は、今も高まるばかりだ。<LOVERS>はニューヨーク近代美術館に収蔵されることが決まっている。また、「ダムタイプ」も活動を続け、注目すべき新作<OR>を発表しているし、メンバーのひとり高谷史郎も、今回<LOVERS>と並んできわめてシャープなヴィデオ作品を発表している。こうして、アイロニーとシニシズムがすべてを覆い尽くすかに見える現代にあっても、アートの燈は密かに受け継がれていくだろう。私たちはそれを注意深く見守っていかなければならない。

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