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先月号で櫻井よしこが指摘している通り、有森裕子とガブリエル・ウィルソンの結婚をめぐるマス・メディアの騒ぎは、むしろ日本社会の性意識の遅れを露呈することになった。人間の性的指向は多様であり、ゲイだからといって異常ということはないし、女性と結婚するのが珍しいわけでもない。そんなことはもはや常識だ。また、そう考えたからこそ、有森裕子やその家族は相手がゲイだ(った)ということを知りながら結婚に踏み切ったのであり、ガブリエル・ウィルソン自身も記者会見の場で自らゲイだ(った)ということを明らかにしたのである。その発言に飛びついて「スポーツに没頭して男を知らない女がゲイにだまされた」というような下劣な騒ぎかたをした日本のマス・メディアの時代錯誤には、唖然とするほかない。 |
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だが、事はマス・メディアだけの問題ではなさそうだ。三島由紀夫との同性愛関係を私小説的に綴った福島次郎の『三島由紀夫 剣と寒紅』が、三島由紀夫の遺族の訴えにより裁判所から出版の差し止めと回収の仮処分を受けたのである。表向きの理由としては三島由紀夫の手紙が無断で引用されていることが挙げられているが(ちなみに、この条件を厳密に適用すれば、評伝の類の執筆はきわめて困難になるだろう)、隠れた理由として同性愛問題があることは疑いない。しかし、『仮面の告白』や『禁色』の作家がゲイだったことは、今さら「暴露」するまでもない歴史的な事実ではないか。たしかに、未亡人にとって、夫がゲイだったことは、自衛隊に討ち入って切腹したこと以上に、認めがたいことだったに違いない。しかし、未亡人も亡くなったいま、その公然の「秘密」にこだわる理由はもうないのではないか。 |
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もっとも、私は福島次郎の本を評価しているわけではない。むしろ逆だ。それは同性愛がタブーであったときにのみ辛うじて意味をもつ時代錯誤的な書物に過ぎないのである。そもそも、作者がここで自虐的なまでに赤裸々に描いてみせる自分自身の姿の、なんと悲しくも貧しいことだろう。社会の同性愛嫌悪(ホモフォビア)を内面化して自己嫌悪のかたまりとなった彼は、自分自身の性を直視することができず、三島由紀夫をはじめとする男たちと床を共にしながら、不能のままにとどまる。やがて高校教師となった彼は、まだ異性とも同性とも体験をもったことのない少年たちを相手にしてはじめて性の快楽を知るのである。 |
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実のところ、福島次郎は、そのような高校教師と生徒との同性愛関係を描いた「バスタオル」(『文学界』1996年6月号に再録)という小説で芥川賞候補に挙げられ、一般読者の知るところとなったのだった。この小説で、主人公は高校二年の生徒と出会い、彼が卒業するまで肉体関係をもつのだが、やはり性を直視したくないからだろうか、その行為は相互手淫と股間性交にとどまる。しかも、その後始末は、下に敷いたバスタオルで体液を拭って、そのまま押し入れに突っ込んでおくという、不潔というほかないものだった。そして、相手が卒業していった後、バスタオルを洗おうとした主人公は、恐ろしいほどの悪臭に打たれて、いい気になっていた自分自身の暗部に直面する。異性愛の結実が玉のような赤ん坊であるとすれば、同性愛の結実はこのおぞましいバスタオルでしかなかった、というのである。 |
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芥川賞の選考にあたって、石原慎太郎や宮本輝はこの小説を高く評価した。同性愛をめぐって「ここまで<はらわた>を見せる」(宮本輝)のは並大抵のことではない、というのだ。しかし、私の見るかぎり、ここにあるのは社会の同性愛嫌悪(ホモフォビア)によって貧困化された性の、悲惨なまでに薄汚れた表現でしかない。禁じられた不毛な性の象徴としての汚れたバスタオル? そんな大袈裟なことを言う前に、性行為の後はシャワーでも浴びて清潔にしておいたほうがいいと言っておけばすむことではないか。 |
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もちろん、福島次郎が言うように、彼の住むような田舎ではゲイに対する偏見がまだまだ強いというのは事実である。だが、同性愛嫌悪(ホモフォビア)に基づく偏見をなくしていくというのは、社会的な課題であって、文学的な課題ではない。むしろ、そのような偏見がなくなれば、「呪われた栄光」としての同性愛を文学のテーマにすることもできなくなるだろう。だが、社会的な差別を逆手にとったその程度の文学は、なくなったほうがいいのだ。 |
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フランスの同性愛作家ドミニク・フェルナンデスは、ゲイが市民権を獲得したことで「呪われた栄光」を失った同性愛が、エイズという疫病によって再び「除けもの(パーリア)の栄光」を取り戻すだろう、と論じた。だが、幸か不幸か彼の反動的な予言は実現されなかった。来たるべき21世紀の文学は、もはや同性愛がタブーではない社会で展開されていくべきものなのである。 |
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