 |
1970/72年に建ったミノル・ヤマサキ設計の世界貿易センターは、ニューヨークを代表するランドマークであるだけでなく、いろいろな意味で象徴的なビルディングだった。まず、それは、無駄な要素をできるだけ排除して簡潔なデザインを目指すというモダニズムの原理の教科書的な応用例と言えるだろう。さらに、このモダニズム建築に、現実原則からシミュレーション原則への転換という意味でのポストモダニズムを見てとったのが、『象徴交換と死』(筑摩書房)のジャン・ボードリヤールである。それぞれに個性をもつ古い摩天楼が、経済的な競争の中で他者と競い合い自己を乗り越えてゆく努力の象徴だとすれば、世界貿易センターの二つのタワーは、互いのモデルかつコピーであり、地上の現実とは隔絶した次元で相互に反映し合っているばかりだ、というのである。「このような二つのまったく同一の建築が向かい合って存在するという事実は、一切の競争の終わり、オリジナルなものへの一切の準拠の終わりを意味する。[...]他の摩天楼のそれぞれが、つねに恐慌と挑戦の中で自己を乗り越えてきたシステムの各々の時期を表わしているのに対し、世界貿易センターの二つのタワーは、二重化の眩暈の中でひとつのシステムが閉ざされたことの明らかなしるしなのである。」そう、それはボードリヤールにとってシミュレーションの時代の到来を告げるハイパーリアルな(反)モニュメントだったのだ。実際、世界貿易センターは、後から建った世界金融センター以上に、現実から遠くはなれたところでマネーがマネーを生んでゆくグローバルな金融資本主義の象徴となっていたと言ってよい。 |
|
その世界貿易センターの二つのタワーが、ハイジャックされた旅客機に相次いで突っ込まれ、あっけなく崩壊した。いわば、金融資本主義とそれが支えるシミュレーションの世界の中に、ダーティな現実が一挙になだれ込んできたのだ。振り返ってみれば、クールな輝きを放ちながら聳え立っていた二つのタワーの残像は、それ自体、現実原則を忘れてシミュレーションのゲームに熱中することのできたある一時代――実はそもそも幻影にすぎなかった一時代への、もはや存在しない墓碑と言えるのかもしれない。 |
|
だが、問題は、その後に来るのがいかなる世界かということだ。私は、田中康夫との連続対談(『新・憂国呆談――神戸から長野へ』小学館)で、世界がトム・クランシーの小説のようになっていくのではないかという予感をたびたび口にしていた。そのとき考えていたのとはちょっと違う意味においてだが、どうやらその予感が現実化しつつあるようだ。『日米開戦』(新潮文庫)で、日本はアメリカに敗北するものの、最後、日本航空の機長が、兄と息子の敵討ちのため、ジャンボジェット(ただし旅客は乗っていない)もろともアメリカ議会に突っ込み、大統領を含む要人たちの多くを殺してしまう。そのため、そこで副大統領就任式に臨むべく近くで待機していた連作の主人公ジャック・ライアンが図らずも大統領になってしまうのである。そのクランシーでも、同時に複数の旅客機(ジャンボではないとはいえ)をハイジャックして旅客もろともカミカゼ攻撃を敢行するという「神業」は想像できなかっただろう。だが、彼の小説は、そうした外からの攻撃に対する多くのアメリカ人の感情的な反応を正直に表現してはいる。実際、次作『合衆国崩壊』(新潮文庫)で、ライアン大統領は、今度はイスラム原理主義を中心とする勢力と戦ったあげく(そこでアメリカは特に生物兵器の攻撃に苦しむことになる)、イスラムの指導者を自宅の爆撃によって殺害し、そのリアルタイムの映像をTV演説の中に織り込みさえするのだ。むろん、そんなことは現実には不可能だろう。しかし、アメリカをバックにしたイスラエルが最近パレスチナでやってきたのは、それに近いことだったのではないか。パレスチナの政治指導者を暗殺する――しかもオフィスをミサイル攻撃するといったダイレクトな形で。そして、トム・クランシー並みに単純なアメリカのブッシュ政権がいま考えているのは、どうやらそれよりはるかに大規模な軍事的報復らしいのだ。 |
|
だから、私は、パイプの絵の下に平然と「これはパイプではない」と書いたルネ・マグリットにならって、炎上する世界貿易センターの写真の下に「これは戦争ではない」と書いておくことにしよう。いや、それはアイロニーではない。いたずらに戦争熱を煽るアメリカに対し、フランスのある専門家が指摘したとおり、「これは戦争ではなく、古典的なテロリズムの最終段階なのだ」から(新しいテロリズムは、むしろ、化学兵器、生物兵器、そして情報兵器を駆使して行なわれるだろう)。いま何よりも必要なのは、戦争熱に浮かされることなく現実を直視する、どこまでもクールな視線なのだ。 |
|