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横浜トリエンナーレがいよいよ9月に開幕する。3年に一度の現代芸術の祭典のスタートとあって、関係者は盛り上がっているようだが、一般の関心は必ずしも高くないというのが実情だろう。芸術が前衛として時代の先端を切り開き、岡本太郎のような前衛芸術家が大衆的なスターになる――そんな時代はとっくに終わっていたのかもしれない。 |
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横浜トリエンナーレ自体の内容については始まってみなければわからないが、いまのところそれよりも目立っているのが、横浜美術館で開かれている奈良美智展であり、東京都現代美術館で開かれている村上隆展である。さらに原美術館で開かれている森村泰昌展を加えれば、「自虐アート」の勢揃いといったところではないか。 |
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そう、かつて彦坂尚嘉が指摘した通り、一種自虐的な戦略で世界のアート・シーンを制覇したのが、80年代の森村泰昌であり、90年代の村上隆であった。倒錯した日本、しかも、アニメのように空っぽで表層的なので倒錯が侵犯行為とさえなりえない日本。そんな日本を自虐的に演じてみせることで、彼らはポストモダン・オリエンタリズムとも言うべき欧米の期待に応え、世界的にもてはやされたのである。 |
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自ら「泰西名画」に出てくる女性に扮した作品で笑いをとった森村泰昌は、今回の展覧会ではメキシコの女流画家フリーダ・カーロに扮している。なかなかの力作ではあるのだが、もはやかつてのような衝撃力はない。そもそも、前衛芸術家だったはずの赤瀬川原平が、近年では「面白老人」として大衆に受け入れられている、その過程を何倍にも加速したかのように、森村泰昌もいまや「面白変態おじさん」としてすっかり大衆のおなじみになってしまったかのようだ。 |
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他方、アニメを過激化したような平面作品や立体フィギュアでいまや世界の頂点に立った村上隆は、まさしく向かうところ敵なしといった勢いを見せている。コンセプトは見え透いており、とくに新味もないとはいえ、デザイナーとしての手腕にはますます磨きがかかり、めくるめくプレゼンテーションで見る者を圧倒するのだ。日米での「スーパーフラット」展のように、なぜかオタク世代の仲間たちと群れたがる村上隆だが、彼自身のようにシャープな造形力をもったアーティストが他にいるわけもなく(言い換えれば、本物のオタクはもっとどろどろした割り切れないものを抱えているのだということになるだろう)、やはり個展のほうがはるかに効果的だと言わなければならない。 |
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その村上隆が「スーパーフラット」の仲間に加えたひとりが、奈良美智である。吊り目で上目遣いの小憎らしい幼女の絵――そう言えば、「ああ、あれか」と思い出す向きも多いのではないか。たしかに記憶に残りやすい絵柄ではある。本の装丁などによく使われるとしても、驚きはしない。あんな小汚い白痴的な絵を平気で使うというのは、著者や編集者が知性もセンスもないことを告白しているようなもので、その本を手に取る手間が省けるという効用(?)もある。しかし、仮にも公立の美術館が、奈良美智の大展覧会を開き、あの幼女や動物の像で溢れかえるというのは、いかにポピュリズム全盛の時代とはいえ、さすがに限度を超えているのではないか。そこには、森村泰昌や村上隆のような美術史的な戦略や技術的な洗練さえない。ただ幼児的な欲望の稚拙な垂れ流しがあるばかりだ。そして、それを「キモカワイイ」と言って面白がる、ほとんど内面のない若者たちが。モダニズムが終わったと言われて数十年、いまアート・シーンはかくも幼稚なところまで退行してしまったのである。 |
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実のところ、似たような現象は世界のあちこちで見られる。だが、やはり日本においてとくに目立つというのは、否定しがたい事実だろう。それは、日本が「小児化」(浅田彰)や「動物化」(東浩紀)において世界の最先端に立っているからだろうか。たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、繰り返すが、依然として古い人間的主体の概念にとらわれた欧米が、「人間」も「主体」もない小児的・動物的な「白痴の楽園」というエキゾティックなイメージを日本に投影し、日本がそのようなポストモダン・オリエンタリズムに進んで身を添わせるという構図が、その背後にあることを忘れてはならない。 |
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実際、日本でも本格的な作品を作ろうとしている真摯なアーティストはたくさんいる。問題は、ポピュリズムとオリエンタリズムに流されたキュレーターや批評家たちが、そういうアーティストたちをまともに押し出そうとする努力を払わなくなったことなのだ。横浜トリエンナーレのような催しに意味があるとしたら、それは、まだ知られていない内外の真摯なアーティストたちに活躍の場を与え、ポピュリズムやオリエンタリズムを押し返す新しい波を作っていくことであるはずなのだが。 |
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