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ヘタな映画マニアのつくった「映画おたく映画」より、TV的な居直りで突っ走ったやけくそのパロディ映画の方が、案外面白いような気もする――というのは、『溺れる魚』のこと。一昨年の「ケイゾク」や昨年の「池袋ウェストゲートパーク」でTVドラマに新風を吹き込んだ堤幸彦が、後者とほとんど同じ手法とテイストで撮った映画だ。 |
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振り返ってみれば、「池袋ウェストゲートパーク」は、いまの若者たちの現実をとらえる鋭い視角といい、コマ落としなどを多用したスピーディな画面展開といい、昨年のTVドラマでは文句なくベスト・ワンだったと言ってよい。そこに描かれる若者たちの生態を、アーバン・トライバリズムと呼ぶことができるだろう。かつて、都市はモダンな文明化(シヴィリゼーション)の拠点だった。それがいまや、ポストモダンな部族化(トライバリゼーション)へと反転しているのだ。学校から落ちこぼれ、定職ももたず、なんとなく群れてぶらぶら過ごす若者たち。そのうち、面倒臭がりだが熱血漢のマコト(長瀬智也が地のままで熱演した)は、母親の果物屋を手伝っていて、まさに池袋の土着民という感じだし、いつもドラッグでトリップしているようなタカシ(窪塚洋介が新鮮な演技で話題をさらった)は、ストリート・ギャングのキングで、ロシア人のガール・フレンドを連れていたりもするのだが、定住的にせよ遊牧的にせよ、いずれも部族的な行動様式を見せる。そんな彼らが、援助交際、猟奇殺人、「おたく」や「ひきこもり」、性転換、外国人の違法滞在、マルチ商法や新興宗教、それに多重人格といったアクチュアルな話題を満載した物語の中を、全力で駆け抜けてゆく、というわけだ。もちろん、TVドラマのことだからやりすぎも目立つとはいえ、このドラマがいまの日本の若者たちの現実を鋭く切り取ってみせたことは認めておくべきだろう。 |
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その「池袋ウェストゲートパーク」の延長上で撮られた映画が『溺れる魚』だ。スピーディな画面展開はTVでお手のものだし、キャスティングと演出にもさまざまなアイディアが凝らされている。一方で、警察上層部にいる怪人(「池袋ウェストゲートパーク」でも警察署長の役だった渡辺謙が演ずる)と、その部下で過食症の美人警部(仲間由紀江)、他方で、幼年期に家族を惨殺されたトラウマをもち、いま企業を脅迫しているらしいアーティスト(IZAM)、その間にはさまれて、熱血悪徳刑事(椎名桔平)と女装趣味の落ちこぼれ警官(窪塚洋介)の凸凹コンビがめちゃめちゃな混乱の中を駆け抜けていくという物語。椎名桔平は宍戸錠の昔の映画に憧れているのだが、途中で本物の宍戸錠が出てきて大乱戦になるあたりはけっこう笑える。窪塚洋介は、NHKのまともな恋愛ドラマで馬脚を現したが、今回はまたしても完璧なはまり役で、ここまでヘナヘナな人間というのは世界的に見て新しいのではないかとすら思わせる、これはやはり監督の腕の差だろう(そう、堤幸彦にとっての窪塚洋介は、クイアー映画の雄グレッグ・アラキにおけるジェイムズ・デュヴァルに対応するのではないか)。トラウマをめぐる物語が前提されているのは、「お約束」とはいえ、あまり感心しないし、そのせいもあって、最初の方はやや低調だ。また、最後に無用な楽屋落ちを重ねるのも逆効果だろう。だが、その中間でこの映画が繰り広げる、徹底して深みを欠いた混沌は、これこそ現代の日本そのものなのかもしれないと思わせる。もちろん、いかにもTV的な貧しさを湛えたそのドタバタ劇が喚起するのは、どこかうそ寒い笑いには違いない。その貧寒とした笑いこそが、しかし、いかにも日本的なのである。 |
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この作品に見られるとおり、TV的な手法で撮られる映画がこれからますます増えていくだろう。だが、それだけではない。あくまで映画的な表現にこだわる正統派も存在している。その最近のモニュメントが、青山真治監督の『EUREKA』だ。この映画もまたトラウマからの回復をめぐる物語を描いている。だが、シネマスコープ・サイズのモノクローム画面で3時間37分にも及ぶ大作に仕上げることで、言葉にしてみれば安易な予定調和にも聞こえるその物語に、ほとんど自然現象を思わせる偉大なスケールを与えることに成功しているのだ。ぎりぎりまで切り詰められた台詞と演技。それをあくまでも静かに見つめるキャメラ。それは日本映画の新たな達成として世界的に高く評価され、去年のカンヌ映画祭で国際批評家連盟賞などを受賞した。近年の日本映画をリードしてきた北野武が目に見えて失速し、最近の『BROTHER』もつまらない「映画おたく映画」になってしまっただけに、青山真治の快挙は嬉しいニュースではある。 |
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パロディ映画としての『溺れる魚』と本格映画としての『EUREKA』。日本映画の最前線は、いまおそらくこの両極の間に張られている |
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