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スタンリー・キューブリックはついに時代に追いつかれることがなかった。新年を迎えるにあたり「2001年宇宙の旅」を見直して、あらためてそう思った。人類が次の段階に進化するという壮大なヴィジョンはもちろん、月面の基地も木星への有人飛行もまだまだ夢物語だし、幼年期の記憶を――したがってまた死の恐怖をもつ人工知能などというのも、とてもできそうにない。そのかぎりにおいて、この映画は20世紀の古典として長く受け継がれてゆくだろう。 |
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逆にいえば、われわれは1960年代の進歩の夢をもはやナイーヴに信ずることができなくなっている。われわれに残されているのは、その夢の残骸を引き受け、それを積み上げて新たな物語を築いてゆくことだけだろう。クリント・イーストウッド監督・主演の「スペース・カウボーイ」は、そのような覚悟の上でつくられた傑作である。 |
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ソヴェト時代のロシアがむかし打ち上げた衛星が通信不能のまま落下し始める。アメリカの航空宇宙局(NASA)はその修理を請け負うが、若手では往時の技術を扱えず、かつて同様のシステムを設計したコービン(イーストウッド)に問い合わせざるをえない。 |
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実のところ、若き日のコービンは、空軍にあってライヴァルのホークらと命知らずの四人組で宇宙を目指していたテスト・パイロットだったのだが、その夢はNASAに宇宙開発の主導権が移った40年前に断ち切られていた。そこで、コービンは一計を案じる。今では唯一当時の技術を知るかつての四人組を復活させ、宇宙に送れ、というのだ。98年には最初の宇宙飛行士グレンさえまた宇宙に行った、老いたりといえど意気軒昂なわれわれに、それができないはずがない……。こうして、かつての空のカウボーイたちは、厳格なテストや訓練を適当にごまかしながら、スペース・シャトルの発射台にまでたどりつき、とうとう宇宙のカウボーイたちとして復活するのである。 |
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だが、やっと行った宇宙で、彼らは思いがけない事実を発見する。ロシアの衛星は、実は核ミサイルを搭載した軍事衛星であり、アメリカのシステムが使われているのも、スパイによる情報流出のせいだったのである。 |
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こんな衛星を修理して維持すべきか。むしろ、安全な場所で処分すべきではないか。ここで、実は膵臓癌に冒されて余命わずかなホークが、いかにも彼らしい提案をする。衛星とともに月の方向に打ち上げてくれれば、自分が核ミサイルを安全な場所で処理し、月までたどりついてみせる。それこそ俺たちの夢だったじゃないか……。どうみても成功するとは思えない大言壮語を、コービンらは受け入れるしかない。 |
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実際、コービンも、自衛能力をもつ軍事衛星との接触で大きく傷ついたシャトルを、ホークの妙技を思い出しながら何とか地上に着陸させるだけで精一杯だ。その帰還を包むのは単純な喜びではない。他方、ありそうもないラスト・シーンでは、核ミサイルを処分したあと月に到達したらしいホークがおそらくは死んで月面に横たわり、そのヘルメットのヴァイザーに青い地球が映っているシーンにかぶせて、フランク・シナトラの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」が流れる。泣かせるシーンではある。 |
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近年NASAを扱った映画では、アポロ計画のうち致命的な事故を克服したミッションに焦点をあてたトム・ハンクス主演の「アポロ13号」が有名だが、それが結局アメリカ讃歌に終わったのに対し、「スペース・カウボーイ」はずっと複雑なニュアンスをもつ。たしかに、かつてのアメリカ空軍のヒーローたちが復活するには違いない。だが、彼らは米ロ宇宙協力の美名に隠された冷戦の遺物と直面し、自分たちが正しいと考える乱暴な形で解決するほかない。それはもはや単純な愛国映画とはかぎりなく遠いものだ。 |
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イーストウッドの作品らしく、「スペース・カウボーイ」は娯楽映画として実によくできている。老人たちを中心とする配役と演技と演出には隙がない。40年前のシーンの白黒撮影は絵のように美しく、現在の宇宙でのシーンはあくまでもカラフルでダイナミックだ。それでいて、支配的なイデオロギーに対する強烈なパンチになっているところが、いかにもイーストウッド作品というべきだろう。 |
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月面で死んだ宇宙飛行士が横たわっているラスト・シーンは、米ソの冷戦と宇宙開発競争の時代だった20世紀後半を、さらにいえば戦争とテクノロジーの時代だった20世紀をしめくくる見事な映像と言えるだろう。進歩の夢の残骸のてっぺんにいるとも言える彼のヘルメットのヴァイザーに、一瞬、青い地球が映る。われわれは、21世紀にこの惑星をさまざまな危機から救ってゆくことができるだろうか。そしてまた月へ行くことができるのだろうか。 |
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