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ヴェネツィアでは世界の美術の動向を示すビエンナーレが2年毎に開催されてきたが、それと交互に建築のビエンナーレも開催されてきている。とくに今年は、主会場のジャルディーニだけではなく、アルセナーレ(旧海軍造船廠)もすべて使って、かつてなく大規模な展示が行なわれた。しかし、その内容は、総じて惨憺たるものと言わざるを得ない。 |
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総合ディレクターのマッシミリアーノ・フクサスは、「より少ない美学、より多くの倫理」というテーマをかかげている。だが、そこには美学もなければ倫理もさらになく、いたるところに氾濫するスクリーンをヴィデオやコンピュータ・グラフィックスのイメージが埋め尽くしているばかりだ。もはや建築は存在しない。それは地球大に肥大化したヴァーチュアルな都市の情報と映像の流れの中に解消されつつあるかのようだ。だが、それはけっして新しい認識ではない。かつて磯崎新が『建築の解体』でサーヴェイしてみせた60年代の解体志向が、電子情報化によって加速されて実現しただけのことではないか。いや、かつてはそういうポップな解体のヴィジョンが死のヴィジョンに裏打ちされていたとして、いまの若い建築家たちはそういう裏面なしのカラフルなイメージと戯れているだけではないか。 |
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その点、磯崎新がコミッショナーを務める日本館は、阪神淡路大震災の瓦礫(脱構築[ディコンストラクション]ならぬ破壊[ディストラクション]の痕跡)を何トンも積み上げて観る者に衝撃を与え、最高賞の「金のライオン」を獲得した前回(96年)に続き、今回は一転して「少女都市」というコンセプトで、妹島和世のまとめる純白の空間の中に、ベルギーの写真家ヘレン・ファン・ミーネの撮った日本の少女たちの内面を欠いたポートレート、津村耕祐のデザインするホームレスのためのポケットだらけで巨大な昆虫の蛹のような服、そして、その服にできやよいがフィンガー・プリントによる小さな顔をびっしりと描き込んだ作品が、不思議な植物のように立ち並んで、きわめて清冽な空間を作り出している。もとより、そこに未来を開くヴィジョンがあるというわけではなく、地震による文字通りの解体と死の後では少女たちの幻想のユートピアに逃れるほかなかったということかもしれない。けれども、一見ナイーヴに見える、しかし、実は精密に計算された、この「無垢」のシミュラクルは、解体の後の「ゼロ年」のイメージとしては、なかなか興味深いものと言えるだろう。 |
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しかし、磯崎新自身がアルセナーレ会場の奥に出品しているインスタレーションの方は、「憑依都市[トランス]」と称してマハリシの弟子たちの「超越瞑想」のためのマンダラ都市を構想したもので、そういうコミッションがあったからそれに応じただけとはいうものの、オカルティズムすれすれの際どい地点に来ているという印象を禁じえない。とくに、プレス向けのオープニングのあった6月15日には、そこで行者たちが「空中浮揚」のヨガまでやったのだから、これはやはり相当な「事件」というべきだろう。しかし、前日パリでウィリアム・フォーサイスとフランクフルト・バレエ団の公演を観た後、その足でヴェネツィアに駆けつけた私の目には、ガラスのかけらが散らばる広大な工場の廃墟の一角に置かれた白いインスタレーションと、それを巡って不思議なゲームのように跳躍を繰り返す行者たちの姿は、ある種の舞踏のように映ったのだった……。 |
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だが、それで言うなら、その名も「エンドレス・ハウス」というフォーサイスの作品にこそ、ビエンナーレ以上に、建築の問題(倫理も含め)が集約されていたのではないか。この作品は、第1部が古典的な劇場で演じられたあと、演技者も観衆も別の会場へ移動する。古典的な劇場での催眠状態から文字通り外に出るわけだ。そして、第2部では、いたるところにしつらえられた複数の舞台を移動しながら、ダンサーたちが同時多発的なパフォーマンスを繰り広げ、観客も自由に歩き回りながらそれを見る――というより、文字度通りそれに触れることになる。実際、ダンサーたちが観客の間をかきわけて出てきたり、観客の中に突っ込んでいったり、場合によっては体が触れるくらいの距離で、フォーサイス特有のあの超絶的なダンスが展開されるのだ。仕切り壁や照明をどんどん動かし、空間をダイナミックに変化させる。その中で、ダンサーのみならず観客もまたどんどん動いてゆくことになる。このようにして、ダンスの慣習と同時に建築の空間そのものも大胆に作り変えられてゆくのである。 |
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60年代にもあった同時多発的パフォーマンスの夢を、当時よりはるかに進化した技術と身体技術を使って、けっしてテンションを落とすことなく実現してみせる。そこに私は21世紀を開く新たな時空モデルの萌芽を見る。 |
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