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1995年8月、ドイツの週刊誌『シュピーゲル』の表紙を異様な写真が飾った。初老の男が分厚い本を引き裂いている。その男は「ドイツ文壇の法皇」とも言われる批評家マルセル・ライヒ=ラニツキであり、本はギュンター・グラスの新刊『はてしなき荒野』だった。ナチスによる焚書の記憶がトラウマとなっているドイツでかくも過激な写真が公表される(厳密にはモンタージュであるとはいえ)ということ自体、グラスの作品への反発の強さを物語るものと言えよう。 |
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何がそれほど問題だったのか。こんど翻訳された『はてしなき荒野』(大月書店)を一見すれば、それが複雑な構造と膨大な内容をもった大作であることがわかる。だが、そこでビスマルクによるドイツ統一とコールによるドイツ再統一が重ね合わされていることからも、グラスが性急な再統一に懐疑的であることは明白だろう。それが再統一に湧く国民的な熱狂に水をさすものとして嫌われたのも無理はない。 |
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実のところ、そのような懐疑はグラスだけのものではなかった。そもそも、西独(ドイツ連邦共和国)の基本法は、来るべき統一の際には憲法を定めなおすという前提でつくられている。だが、再統一を急いだコールは、州を連邦に編入する基本法の手続きを用いて東独全体を西独に編入してしまったのだ。本当は、緩やかな連合を維持しながら東西間の格差を埋めてゆき、必要なら機が熟したところで新しい憲法の下に再統一を図るべきではなかったのか。歴史的な好機を逃さず再統一を成し遂げるのに、そんな悠長なことは言っていられなかったという事情もわかる。だが、東西間の格差がいたずらに大きくなってしまった現状を見るとき、グラスを初めとする当時の慎重論の先見性を再確認しないわけにはいかない。いずれにせよ、99年の冬、ベルリンの壁の崩壊の十周年を記念する行事が行なわれる一方で、グラスにノーベル文学賞が与えられたというのは、なかなか見事なバランスと言えるだろう。 |
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そもそも、1927年にダンツィヒ(現在のグダニスク)で生まれ、59年の『ブリキの太鼓』(集英社)でセンセ−ションを捲き起こしたグラスは、ドイツの文壇でも一貫して特異な存在だったと言ってよい。戦後のドイツでは、良心的知識人はナチスの非合理主義への反省から合理主義に徹しようとし、非合理主義を弄ぶのは危険な反動だとされてきた。だが、グラスは、一貫して左翼の立場を貫きながら、合理主義の枠を大きく超えた野性の想像力を作品の中で自由に羽ばたかせてきたのだ。言ってみれば、父子の受難と救済の神話に傾斜することですっかり角がとれてしまう前の大江健三郎にも似た資質を、この作家はずっと保持してきたのである。 |
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もっとも、初期のダンツィヒ三部作の濃密な物語世界が、その後かなり変化してきたことは事実で、それもまたドイツの批評家たちの批判の的だった。政治にのめりこんだグラスは、文学を政治的テーマを表現する手段として単純化してしまったのではないか。だが、グラスの作品は、単純になったというより、いっそう複雑になったというべきだ。『はてしなき荒野』をみても、再統一後の現実は、旧東独国民だった語り手や登場人物たちの各々の視点からとらえられており、さらに、登場人物のひとりには19世紀の作家テオドール・フォンターネの姿が重ねられている。かれが再統一を批判するからといって、それをただちに作家自身の意見とみなし、作家を政治的に批判するといった態度は、この複雑な構造をもつ作品をまともに読めていないことの証でしかない。むしろ、再統一後の現実を複数の視点からとらえたこの作品は、旧東独国民を含む現在のドイツ人のさまざまに矛盾をはらんだ感情を、実によく表現していると言うべきではないか。 |
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グラスは、99年の新作『私の一世紀』でも、さらに多くの視点を導入し、一年にひとつ、合わせて百の物語で、20世紀を縦断してみせる。オムニバス形式の、どちらかといえば軽い作品には違いないものの、今世紀の歴史をさまざまな人物の視点から語っていくその手並みはグラスならではのものと言えよう。たとえば、70年の項では、語り手である三文記者が、左翼知識人を伴ってワルシャワを訪れたブラント西独首相(当時)がユダヤ人ゲットーの跡でひさまずいたのを、「まったくのショーだ」と嘲笑する。グラスその人がブラントに随行していたことを知る読者は、このしたたかなアイロニーに舌を巻くほかない。 |
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こうして、ダンツィヒの濃密な物語世界から出発したグラスは、その「根拠地」を離れ、歴史という「はてしなき荒野」を歩み続ける。ますます多様化し、しかもユーモアを失うことのないその小説は、「われらの世紀」の遺産として長く読みつがれてゆくことになるだろう。 |
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付記:『私の一世紀』は後に早稲田大学出版局から邦訳が出た。 |
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