Critical Space Archive

アルモドバルと女の世界
 グラム・ロッカーやドラッグ・クイーンの闊歩するマドリッドの夜の世界から現れたペドロ・アルモドバルは、1980年の長篇デビュー以後あっという間に「ポスト‐フランコ、ポストモダン」*[1]のスペインを代表する映画作家となった。そのアルモドバルの新作『オール・アバウト・マイ・マザー』――作品中で『イブの総て』が引用されるのだから『母の総て』と訳すべきではなかったか――は、ほとんど非の打ち所のない完成されたメロドラマである。『バチ当たり修道院の最期』(何という邦題だろう!)や『欲望の法則』のような旧作に見られた変態(クイアー)性が薄れたのを嘆く声がないわけでもない。その代わりに、観客すべてを楽しませようというサーヴィス精神に満ち、それを磨き抜かれたテクニックとセンスで実現してみせたこの新作は、映画が大衆芸術であるかぎりにおいて到達し得る最高の水準を軽々とクリアしている。去年のカンヌ映画祭でも一番人気で、ひねくれ者のクローネンバーグが審査委員長でなかったらパルム・ドールを獲得していただろう。現に今年のロサンジェルスのアカデミー賞では海外部門でオスカーを獲得した。日本でもこの作品をきっかけに多くの観客がアルモドバルの魅惑的な世界に足を踏み入れることを期待したい。
 このメロドラマのストーリーは実に荒唐無稽なものだ。簡単に要約してみれば:
 エステバン1:20年前、アマチュア劇団でテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』*[2]のステラ役を演じたマヌエラは、夫役のエステバンと恋に落ちるが、エステバンは性転換してロラになってしまう。バルセロナで同棲するものの、夫(?)のあまりの無軌道ぶりについていけなくなったマヌエラは、妊娠を機にマドリッドへ逃げる。
 エステバン2:17年後、マヌエラは臓器移植コーディネーターとして働きながら、作家志望の息子エステバンを育てている。父について一切話さない母に、息子は父のことも含め「母の総て」を知って書いてみたいと言い(したがってこの映画はエステバン2の作品であるとも言えるだろう)、母もいよいよ秘密を打ち明けようと約束する。だが、その約束が果たされることはなかった。17歳の誕生日に母と『欲望という名の電車』の公演を観に行っていたエステバンは、帰りにブランチ役の女優ウマのサインを貰おうとしてその車を追い、別の車にはねられて死んでしまうのだ。マヌエラは、かつて別れたきりのロラにそのことを伝えようと、バルセロナに向かう。
 エステバン3:マヌエラは、バルセロナで、昔ロラと一緒に性転換したアグラードと久しぶりに再会し、『欲望という名の電車』の巡業中のウマの一座とも巡り会う(ウマはステラ役のニナを愛しているが、二人の関係は『イブの総て』の大女優と新進女優の関係に似てもいる)。だが、もっとも重要なのは、ロサとの出会いだった。修道会に入り、社会奉仕活動でアグラードのようなマイノリティの人々を助けていた彼女は、そこで出会ったロラの子を身ごもると同時に、HIVに感染させられていたのだ。マヌエラは実の母親に代わってロサを看護するが、ロサは出産時に死んでしまう。その遺志にそってエステバンと名づけられた赤ん坊は、しかし、マヌエラを母とし、体内のHIVを駆逐するほどの勢いで元気に育ってゆくだろう。
 いかにも荒唐無稽なこの物語の世界にあっては、打ち続く不幸と混乱にもかかわらず、すべてのボールがちゃんとリレーされてゆく。エステバン2の心臓は心臓病患者に移植されるだろう――マドリッドから見てバルセロナとは反対のスペイン西北端に位置するラ・コルーニャで。エステバン2がマドリッドで貰いそこねたウマのサインは、バルセロナでウマから贈られるだろう――時すでに遅しとはいえ。エステバン2がまだ見ぬ父にあてて書いた手紙のようでもある創作ノートは、彼の写真とともに、エステバン1=ロラに贈られ、その写真は死の直前のエステバン1=ロラからウマに贈られるだろう。なによりも、エステバンという名前そのものが、嘘のように自然にリレーされてゆく。それを支えているのは、女=母たちのネットワークだ。母といっても、家族的な血縁を想像すべきではない。たとえば、ロサにとって、世間体を気にする実の母ではなく、マヌエラこそが、真の母なのだ。端的に言って、「母」とは「他の女(たにん)」であり、「他の女(たにん)」が「母」である。そのような女=母たちのネットワークにおいては、誰もが「私はいつも見ず知らずのかたのご親切にすがって生きてきましたの」という台詞をいともすなおに口にすることができるだろう。実のところ、これは『欲望という名の電車』の末尾でブランチの語る台詞であり、そこではひとり精神病院へ曳かれてゆく彼女の悲劇性を逆に際立たせるものだったのが、ここでは見事に反転されているのだ。一般的に、ジャン=マルク・ラランヌが簡潔にして大胆な映画評*[3]で言う通り、モダニズムがコミュニケーションの不可能性を前提としているとすれば、「何ものも届かない手紙(デッド・レター)のままではいない」アルモドバルの世界はまさしくポストモダンであり、そこでは、イマージュというイマージュは、モダンなずれと空虚の意識から解放され、一杯に色彩を吸い込んで生き生きと輝くのである。
 もちろん、アルモドバルは自分の作品のそうしたポストモダンな虚構としての性格を十分に意識している。そもそも、ドラッグ・クイーンの世界から出てきた彼にとっては、現実そのものがすでに虚構になっているのではなかったか。そのような意識は作中でも明確に表現されている。臓器移植に関するセミナーの講師を務めるマヌエラは、息子も見学する前で、夫が脳死状態になって臓器提供の判断を迫られる妻を演ずるのだが、その夜には現実に息子が脳死状態になって臓器提供の判断を迫られることになる。ここではまさしく虚構が現実に先行するのである。
 しかも、アルモドバルは、そういう虚構をとりあえず観客に信じさせてしまう――観客におのずと「不信の中断」suspension of disbeliefを促すだけのテクニックとセンスを兼ね備えている。まず配役と演出が素晴らしい。マヌエラ役のセシリア・ロスはもちろん、ウマ役のマリサ・パレデスからアグラード役のアントニア・サン・フアンに至るまで、女たち(と女になった男たち)を見ているだけで、観客はけっして飽きることがないだろう。ちょっと野暮ったいくらい濃い色合いの、しかし、そこがまたえもいわれぬ味を醸し出す、衣装、そして、室内装飾(ガウディ設計のアパートや家具も出てくる)。さらにまた、バックに映るマドリッドやバルセロナの懐かしくも美しい風景。バルセロナが最初に映るところなどはいささか観光案内的でありながら、一度でもあの街を訪れたことのある者をノスタルジーで満たさずにはいない。それらすべてが、見事な撮影と無駄のない編集によって、小気味よいテンポで流れてゆく。とくに、輸液チューブや鉄道のようなリレーの媒体をとらえたショットの的確さ、そして、わずかな間を置いてすれ違う列車のショットの中に何年間もの時間を封じ込めてしまう手並みの鮮やかさ。こうして、『オール・アバウト・マイ・マザー』を観た者は、それが荒唐無稽な虚構であることを意識しながら、それでも、切なさとないまぜになった幸福感に満たされ、「人生というのはいいものだな」という、凡庸な、しかし否定しがたい感覚がこみ上げてくるのを抑えられないだろう。「ね、そうでしょう?」と言って艶然と微笑むアルモドバルの笑顔が見えるようだ。「人生なんて所詮は虚構。それでもけっこういいものなのよ。」
 繰り返すが、それを、モダンな悲劇のポストモダンなメロドラマへの反転として批判し、ゲイ男性による女性/母性の安易な理想化に基づく幻想として切り捨てるのはやさしい。だが、それは少なくとも現代日本映画ではめったに見ることのできない生き生きした女たちの姿を見せてくれる。かつて私は大島渚の『御法度』に関してホモソーシャリティ(女性嫌悪[ミソジニー]同性愛恐怖[ホモフォビア]に基づく男同士の社会的結合)の神話への回帰――それはあくまで爽やかな維新期の青年たちの担う健全なナショナリズムという司馬遼太郎の反動的な神話への屈従につながるものだ――を批判したが、実のところ、黒澤明から黒沢清にいたるまで、近年の日本映画の多くがそのような意味での「男たちの映画」でしかないのは、否定しがたい事実だろう。変態(クイアー)映画作家アルモドバルが描いてみせるのは、それとは対極にある世界、優しくしかも生き生きした女たちの、そして、男であることをやめ彼女らの女ともだちになった性転換者たちの、切なくもゴージャスな世界、家族よりも濃密な非家族的関係の世界なのだ。日本映画で長らくお目にかかったことのないそうした世界に触れるだけでも、映画館に足を運ぶ価値は十分にある。そして、観客は、ちょっと幸せな気分になって映画館から出てくることになるだろう。

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