Critical Space Archive

「サルトルの世紀」を振り返る
 ジャン・ポール・サルトルの没後20年に際して、BHLことベルナール=アンリ・レヴィの『サルトルの世紀』が刊行された。1905年から80年まで20世紀の大半を駆け抜けた大知識人の姿を多面的に描き出そうとした、650頁を超える力作である。
 サルトルは『実存主義は人間主義[ヒューマニズム]である』(46年)という宣言で名高い。それに対し、主体としての「人間」に先立つ言語のような「構造」を重視する理論的反人間主義としての構造主義が、とくに60年代以降支配的となる。「構造」概念をフロイトと結びつけたラカンや、マルクスと結びつけたアルチュセールが、その代表だ。さらにそれに対して反発したのが、BHLをはじめとする68年の世代だった。たとえば、ほぼ同世代の哲学者であるリュック・フェリーとアラン・ルノー(後者は『最後の哲学者、サルトル』[法政大学出版局]の著者でもある)は、『68年の思想』[法政大学出版局]で、構造主義やポスト構造主義を反人間主義として批判し、人間主義への回帰を唱える。それに基づく人権主義が、とくに旧社会主義圏崩壊以後のヨーロッパであらためて支配的となっていることは、いまさら言うまでもない。かつてサラエヴォに飛び、いまもウィーンに飛んで、派手な「人権外交」を繰り広げているBHLのことだから、やはりその流れに乗って、人間主義の元祖としてのサルトルの復権を図ろうというのだろうか。
 いや、BHLの議論はそれほど単純ではない。彼はいまもあえてアルチュセールを「わが師」と呼び、その理論的反人間主義を堅持しているのだ。より良い「人間」を生み出し、それを主体とするより有機的な「共同体」を作り出そうとする人間主義こそが、最終的にヒトラー主義やスターリン主義のような悲劇を生み出した、それに対する理論的批判を捨てることはできない、というのである。そして、BHLは、『嘔吐』(38年)や『存在と無』(43年)のサルトル、不条理な世界の中でいわば無としての自由に賭けようとしたサルトルのうちに、実体的な主体や共同体を否定する反人間主義を見ようとする。サルトルの人間主義が「68年の思想」の反人間主義によって乗り越えられたのではない、サルトルこそそのような反人間主義のもっとも過激な先駆者だった、というのである。そして、そのような反人間主義にもかかわらず、いや、それゆえにこそ、あらゆる形の全体主義に対する闘争を続けたサルトルの中に、BHLは現代に生きる知識人のモデルを見出すのだ。(この乱暴な要約以上に詳細に立ち入る余裕はないが、BHLが、人間を超える超越的な<精神>や<存在>を絶対化するヘーゲル的あるいはハイデガー的な反人間主義――ルノーとフェリーによれば後者こそポスト構造主義の隠れた基盤である――や、人間を<内在平面>に解消してしまうスピノザ=ドゥルーズ的な反人間主義を批判し、それらと区別されるものとしてアルチュセールの反人間主義に「忠誠」を誓っていることは、付け加えておくべきだろう。さらに、BHLは、ナチスに銃殺された数学者ジャン・カヴァイエスを引き合いに出し、そこに「人間主義によるレジスタンス」ではない「論理によるレジスタンス」[ジョルジュ・カンギレーム]を見ているが、やはりアルチュセールの弟子だったアラン・バディウが一昨年の『メタ政治学摘要』の冒頭でまったく違う立場からやはりカヴァイエスをモデルとして取り上げているというのは、兆候的な暗合である。)
 もちろん、サルトルの総体をそういう形で一括できないことは、BHLもよくわかっている。サルトルは、『存在と無』の徹底的な反全体主義を貫くことができず、『弁証法的理性批判』(60年)で「溶解集団」を理想化するに至る。50年代にはソ連を賛美し、68年には毛沢東派の若者たちを支持する。だが、それは単なる退行ではない。BHLによれば、二人のサルトルがつねに共存していたのだ。いや、BHLは三人目のサルトルの存在を示唆しさえする。晩年のサルトルは、毛沢東主義からユダヤ主義に転じたピエール・ヴィクトール=ベニー・レヴィを秘書とし、80年に発表された彼との対談で自分のそれまでの仕事を否定するかのような発言をした。それに対しては、視力を失い、思考力も衰えたサルトルが、野心的なレヴィに引き回されている、これでは本当にサルトルの発言とは言えない、というのが周囲の見方だった。ところが、BHLは、レヴィを通じてレヴィナスをはじめとするユダヤ思想に目覚めたサルトルがそれまでの仕事を否定して新しい道に進もうとしていたと考え、そこに(死によって中断されはしたものの)大胆な再出発を見るのである。
 『サルトルの世紀』は、サルトルの哲学を体系的に分析した理論書ではなく、たとえばサルトルの反人間主義と「68年の思想」の反人間主義の結びつきにしても、厳密に論証されているわけではない。また、それは一貫した評伝ではなく(ただ、サルトルの戦時中のレジスタンスをいたずらに疑問視する近年流行の議論を的確に反駁するなど、要所要所はおさえてある)、たとえばいま触れた晩年の再出発にしても、簡単に示唆されているだけで、細かな裏付けを欠いている。にもかかわらず、この本がサルトルという矛盾に満ちた多面的存在をきわめてヴィヴィッドに描いていること、それを通じて20世紀の諸問題を見事に照らし出していることは、認めておくべきだろう。それはまさに在野の作家・哲学者だったサルトルにふさわしい書物と言えるのではないだろうか。
 もちろん、自分を現代のサルトルとして演出しようというBHLの意図は、見えすいているといえば見えすいている。この時期にサルトル論を刊行し、あらゆるメディアでインタヴューに応じてみせるあたりは、かつての「新哲学派[ヌーヴォ−・フィロゾーフ]」のリーダーらしいメディア戦略と言うべきだろう。だが、そのダイナミックな思考において、また、歯切れのいいスピーディな文体において、BHLは、古き良き人間主義・人権主義に回帰するばかりの同世代の講壇哲学者たちを遥かに凌駕している。BHLの論旨にどこまで同意するかは別問題だ。少なくとも、彼が描いてみせたサルトルの像の中に、われわれは20世紀の歴史と思想のヴィヴィッドな一断面を見て取ることができるだろう。

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