Critical Space Archive

コンサート・ホールで考える
 日本の音楽界では20世紀も終わろうという今になってやっとメジャーな場面でも実験的な試みが目立つようになってきた。もっとも、すべてが成功というわけではない。これから来世紀にかけて、いい意味での実験が積み重ねられてゆくためにも、あえて厳しい目でチェックしておかなければならない。

タン・ドゥン(譚盾)
 タン・ドゥンは、1957年生まれの中国の作曲家で、文化大革命のため苦難に満ちた少年期を送るが、86年からニューヨークに移り、派手な作風で多文化主義(マルチカルチュラリズム)時代のアジア音楽の旗手としてもてはやされるようになる。NHK交響楽団がそのタン・ドゥンに委嘱した新作『門』が99年11月25日に初演された。
 この作品は、「オーケストラル・シアター」と称し、タン・ドゥンが創案・音楽・台本・演出のすべてを担当している。「門」とは死者をこの世に甦らせる復活の門であり、指揮者の演ずる「審判」が、『覇王別姫』の虞姫、『ロメオとジュリエット』のジュリエット、『心中天網島』の小春を召喚して、彼女らが自ら命を絶つに至った経緯を語らせ、復活に値するかどうかを審判するという筋書きだ。ヴァイオリンは客席の通路、チェロとコントラバスは舞台上手、ヴィオラは舞台下手、管は舞台中央奥に配され、それらに囲まれた舞台中央で、女たちの悲劇が、京劇、現代オペラ、文楽の形式で演じられる。
 指揮者が「審判」として演技するという設定は効果的で、最初、女たちを喚問した指揮者=「審判」の激しい動きが舞台奥のスクリーンに大映しになってパッとフリーズされるところなどはなかなか迫力がある。パーカッショニストが書記役となってリズミカルにタイプライターを打ち、女たちが命を絶つごとに盥に手をひたして水音をたてる、それもまたスクリーンに大きく映し出され、印象的な効果を生んでいる。だが、3人の女の物語がそれぞれの様式でたんに並列されるというのは、いかに多文化主義とはいえ、あまりに単純だろう。また逆に言えば、ハリウッド製中国映画の音楽を思わせる、それなりに雄弁な、しかし本質的に卑俗な音楽が、ジュリエットの場面も含め、全篇にわたって続くので、多文化主義といいながら、実はかなり単調な印象を受ける。
 指揮者のシャルル・デュトワは、「審判」の役をこなしながら、オーケストラを見事にコントロールして、それなりに緊迫感のある音楽を奏でてみせた。ソリストたちもなかなかの力演だったと言うべきだろう。(もっとも、現代語による語りを伴った文楽もどきは、けっして成功しているとは言えない――中国人が見れば、京劇の部分にも同じようなことが言えるのかもしれないが。)50分のあいだ、観客は退屈することなく舞台を楽しめたのではないだろうか。とはいえ、3人の女の物語がたんに並列された後、3人とも復活を許されることになり、スクリーンに大きく映し出された「門」という漢字に向かって歩み去って行くというのは、あまりに安易な構成と言うほかなく、舞台と音楽に関しても、一見多文化的な要素を、ハリウッドと大差ない水準の音楽で煮込んだ、大味なごった煮という印象を禁じ得ない。われわれがそこに見るのは、多文化主義がアメリカの主導する世界資本主義の文化的表現に他ならないという事実の露骨なあらわれなのである。

ダルラピッコラ/フォーレ
 タン・ドゥンの『門』は、しかし、一応念入りに作り上げられた作品――エキゾティックな商品として世界市場に売り出せる程度のものには違いない。それに比べて、NHK交響楽団が同じシリーズで12月18日に上演したルイジ・ダルラピッコラの『囚われびと』とガブリエル・フォーレの『レクイエム』は、愚劣と言うほかない舞台だった。
 まず、これら2作品を続けて上演するというアイディアが完全に誤っている。ダルラピッコラがファシズムの時代に作曲を開始した『囚われびと』(1944〜48年)は、リラダンの『希望による拷問』という小説にヒントを得て、出口無しの情況を正面から描いた作品だ。スペインのフェリペII世の牢獄につながれた囚人が、圧政に耐えかねた民衆が蜂起しつつあるという知らせに希望を抱かされ、自分も自由になったと思った瞬間、それがすべてトリックだったと知っていっそう深い絶望にとらわれる。空しい希望こそもっとも残酷な拷問だというわけである。このような作品の直後に、夢のように優しく美しいあのフォーレの『レクイエム』を演奏するというのは、それ自体「希望による拷問」のパロディとも言うべき愚行ではないか。しかも、それをひとつの舞台作品として上演しようというのだから、恐れを知らぬ暴挙と言うほかはない。
 そもそも、高島勲の演出は、『囚われびと』においてすでに問題外である。冒頭、人形から取り出されて放り投げられた赤いハートを囚われびとの母がつかむというシーンを見ただけで、その幼稚さとセンスの悪さがわかるだろう。幾何学的な舞台にケージを置いて牢獄を表現するのはいいのだが、その上に石牢の映像が投影される――しかも、スクリーンもなしに、反響板の段差も無視して!――のはリダンダントでしかない。やがて、骸骨に覆われた教会の内壁の映像や、空襲の後の都市の映像が、それに続くだろう。あまりにもわかりやすい幼稚な思い付きといい、雑な仕上げといい、信じがたいと言うほかはない。そして、この演出上の暴力が、音楽史上もっとも清澄な作品のひとつと言ってよいフォーレの『レクイエム』をも、無惨な紙芝居に変えてしまうのだ。『囚われびと』が終わって、死体と見なされた人形がごとんと投げ落とされる。それを弔う葬儀として『レクイエム』が上演されるのである。儀式ばった人間の動きといい、例によって乱暴に投影される映像といい、すべてが音楽の透明度を損なうものでしかない。最後の「天国にて」で、『囚われびと』で主役を演じ『レクイエム』でも独唱を聴かせたデイヴィッド・ピットマン=ジェニングスが半裸の肥満体もあらわに両手を水平に伸ばして立ち、その背後にレオナルド・ダ・ヴィンチの円に内接する男の図が投影される(復活と予定調和のヴィジョン?!)ところなどは、失笑せずにはいられないしろものだった。
 実のところ、音楽の面でも、今回の演奏はあまり褒められたものではない。デュトワとNHK交響楽団は、『囚われびと』ではそれなりに緊迫感のある演奏を展開していたし、独唱者たちもまずまずの出来だったと言えるだろう。半面、きびきびした表現を好むこの指揮者は『レクイエム』をも早めのテンポで機械的に押し通してしまい、この音楽の清澄な美が舞台上で結晶することはついになかったのである。
 しかし、繰り返すが、何よりも間違っているのは、これらの2作品を続けて上演するというアイディアである。『囚われびと』には、ラザロの復活の話にひかれて囚われびとが外に出ようとする場面がある――牢獄の中よりも恐ろしい絶望が外で待ち受けているとも知らずに。その後で『レクイエム』が流れ、最後の「天国にて」でラザロの復活の話が透明な少年合唱で歌われるのを、誰が素直に聴けるだろうか。それができるのは、20世紀の終わりとともに、この世紀の歴史の悪夢を忘れて、安易な救済の夢に身を委ねたいと望む、能天気な健忘症志願者だけである。

フィリップ・グラス
 ダルラピッコラとフォーレの無惨な上演を見たとき、これほどひどいコンサートに立ち会うことはしばらくないだろうと思ったのだが、残念ながら、その見込みは見事にはずれた。そもそも、私がこの上演にいたく失望したのは、『囚われびと』や『レクイエム』を作品として高く評価しているからにほかならない。他方、去る1月30日に東京で演奏されたフィリップ・グラスの交響曲第5番は、いかなる演奏によっても救いようのない愚劣な作品だったのである。
 「ピース・シンフォニー」と称し、「レクイエム、バルドゥとニルマナカヤ」という副題をもつこの作品は、ミレニアムの変わり目にあたってザルツブルグ音楽祭から委嘱され、昨年の夏に初演された大作である。多文化主義の時代にふさわしく、リグ=ヴェーダから入菩提行論にいたる世界各地の神話や聖典や詩句がコラージュされ(ただし、もちろんすべて英訳で)、天地創造から生と死をへて天国に至る――副題にそって言えば、過去を回想するレクイエムから、現在の生と死の「中有」を意味するバルドゥをへて、未来の悟りを意味するニルマナカヤに至る――全12楽章の一大絵巻を繰り広げてゆく。それが、ミニマル・ミュージックの単純な音楽言語――要は単調なリズムにのったドミソの連続によって、100分にもわたって歌い上げられてゆくのである。
 そもそも、グラスはミニマル・ミュージックの創始者のひとりであり、一切の無駄を省いた単純なパターンの反復からなる初期の作品は、いま聴いても実に新鮮に響く。その延長上で書かれたのが、ロバート・ウィルソンとの共同作業によるオペラ『渚のアインシュタイン』(1976年)だった。しかし、この記念碑的な作品以降、ミニマリズムは事実上マキシマリズムに転化し、急速に飽和に近づいてゆくことになる。実際、グラスがそれから量産してきたオペラや映画音楽の数々は、どれも単純な要素をえんえんと反復するだけで、互いにほとんど区別のつかないしろものなのだ。
 その中でも、この交響曲第5番は、いまのところ究極の粗大ゴミとも言うべき様相を呈している。単調で暴力的なパーカッション。これでもか、これでもか、と言わんばかりのドミソの反復。笑ってしまうほど幼稚で卑俗な響きも随所に現われる。かつての実験音楽もハリウッドのレヴェルまで俗悪化した? いや、ハリウッド映画はおろか、普通のアニメでさえ、いまどきこんなに雑な音楽を使うことはない。知性もセンスもなく力まかせにドンチャカドンチャカ押しまくるだけの体育会系の音楽。そう、沼尻竜典と東京フィルハーモニー交響楽団、そして、5人の独唱者と大規模なコーラスは、休憩なしの長丁場を汗だくで健闘していたには違いないが、これならマラソンのTV中継でも見ていたほうがはるかにましというものだろう。こんな粗製濫造音楽でミレニアムを総括しようというのだから、グラスの能天気と無神経と鉄面皮にはさすがのタン・ドゥンも遠く及ばないと言わなければならない。
 それにしても、これに比べると、同じミニマル・ミュージックから出発しながらも、スティーヴ・ライヒの『ザ・ケイヴ』がいかに傑出したものだったか、あるいは、同じ朝日新聞創刊120周年記念イヴェントで言えば、坂本龍一の『LIFE』がいかにすぐれたものだったか、あらためて痛感せずにはいられない。もちろん、それらの作品に対しても、人類史を総括しようとする誇大妄想や宗教への傾斜を批判することはできる。しかし、少なくとも、それらは、グラスの作品の数百倍、数千倍の情報を織り込み、隅々まで精密に磨きぬかれた作品なのであり、だからこそ、何度聴いても飽きることがないのである。私は、公正を期すため、自分が『ザ・ケイヴ』の日本公演にかかわったこと、また、『LIFE』のアドヴァイザー役をつとめたことを明らかにした上で、批評家としての名誉にかけて断言する。どこから見ても、『ザ・ケイヴ』や『LIFE』に比べ、グラスの交響曲第5番は比較にならないほど愚劣な作品でしかない。

批評の問題
 実のところ、私が力んでみせるまでもなく、それは誰が聴いてもすぐにわかる自明の事実でしかない。問題は、批評のレヴェルでその程度の質の違いさえはっきりできないというところにある。
 たとえば、ミニマル・ミュージックを支持してきた批評家の多くは、グラスとライヒを並列して扱いがちだ。私は、グラスの初期の作品を高く評価し、『渚のアインシュタイン』も記念碑的な作品であると考える一方、その後の作品はほとんど評価しない。また、それ以後のグラスの作品と、同時期のライヒの作品では、後者の方が比較にならないくらいすぐれていると断言する。その差が分からなくて、批評家と言えるだろうか。
 あるいは、長木誠司は『LIFE』を「壮大な浪費」としてほぼ全否定した。もちろん、そのような批評的判断もあってよい。前衛音楽の歴史を正しく受け継ぐ作曲家――日本で言えば細川俊夫のような存在(ちなみに私も彼を高く評価している)を擁護する一方、ポップ化したミニマル・ミュージックやそれ以後の流れを否定するというのは、ひとつの批評的立場である。ところが、その長木誠司が、グラスの交響曲第5番に、いかにも褒めにくそうな、しかし、結局は肯定的な解説を寄せているのだ。こうなると、私はその批評的立場を疑わざるを得ない。ザルツブルグ音楽祭で上演されたグラスの交響曲は広義の「クラシック音楽」に属するからいいが、坂本龍一の作品はテクノポップの延長上にある下手物にすぎない? だとすると、しかし、それは党派的な判断でしかないだろう。
 実のところ、ここで言っているのは、さして本質的なことではない。問題にするに足る作品と問題外の作品を分かつ最低線、ほとんど誰もがただちに見分けられるはずの線を、批評が明確にできないでいる。それでは本質的な議論を始めることすらできないだろう。そして、それは音楽批評だけの問題ではない。

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