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大島渚の新作「御法度」を見た。ほとんど救いようのない失敗作である。 |
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「御法度」は新選組を描いた作品だが、政治の問題は無視され、もっぱら性の問題――男性集団に入ってきた美少年の捲き起こす官能の嵐がクローズ・アップされる。女性を排除した男性集団は、暗にホモエロティックな傾向をもたざるを得ないだけに、それがホモセクシュアルな行為として顕在化することを怖れる。E・K・セジウィックの言うホモソーシャリティ――女嫌い(ミソジニー)と同性愛恐怖(ホモフォビア)に基づく男性同士の社会的結合――の問題である。かくして、新選組という男性集団に入ってきた多情な美少年は、さまざまな波乱を引き起こしたあげく、ついには排除されることになるだろう。同じ美青年でも夭折を運命づけられているせいもあってほとんど性を感じさせない沖田総司が美少年を斬り、土方歳三が満開の桜の木を叩き切って、物語は締めくくられる。自己去勢でもあるこの切断によって、ホモセクシュアルな無秩序の危険が否定され、ホモソーシャルな秩序が回復される――司馬遼太郎的なモラルの勝利?――というわけである。実のところ、大島渚はすでに「戦場のメリークリスマス」(1983年)でこのようなホモソーシャリティの問題をテーマにしていた。しかも、そこでは、この問題が人種問題などとも結び付けられ、また、もう少し複雑なニュアンスをもって扱われていたのだ。「御法度」はそれを単純化した反動的な物語でしかない。 |
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さらに悪いことに、「御法度」の配役と演出は、この物語を説得力をもって展開することにすら失敗している。とくに、主役の松田龍平は、たしかに奇妙な色気を漂わせはするものの、男という男を魅了する美少年というにはほど遠く、同性愛にまつわるシーンも、まったくエロティシズムを感じさせない。とすれば、この物語全体が原動力を欠いてしまうことになるだろう。他方、どこまでもさわやかな沖田総司を演ずる武田真治は、得な役をのびのびとこなしてみせるが、終わりの方で『雨月物語』の「菊花の約(ちぎり)」を語る無理な長台詞を押し付けられて、限界を露呈する。もちろん、土方歳三役のビートたけしをはじめとする俳優たちの中には強烈な存在感を見せる者もいるし、緊迫感に満ちた剣道の稽古や真剣勝負のシーンをはじめとして見事なシーンもあることを指摘しておかなければ、公平ではないだろう。だが、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手だった大島渚は、練り上げられた演出を否定し、俳優が演技している姿そのものをドキュメントするといった撮り方をする監督であり、したがって、自己演出のできない俳優の無様な演技は無様なままで放置される。結果として、全体の印象は、単純な物語をひどくばらついた演技で不器用に映像化したというものでしかない。 |
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実のところ、初期の大島映画の魅力は、そういう即興演出的なドラマを不安定なキャメラでざらざらした画面に辛うじて定着するところに生まれる、貧しくも鮮烈な印象にあったと言えるだろう。だが、かつての「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」の異端児も、いまや巨額の予算で大作を撮る巨匠となった。また、幸か不幸か、今回の撮影監督の栗田豊通はアメリカ映画界でも活躍するプロフェッショナルであり、多くのシーンは大島映画としては例外的に安定した構図と美しい色調で撮られている(もっとも、『雨月物語』が語られる最後の一連のシーン――明らかに溝口健二を意識したセット撮影のシーンなどは、見るに耐えない)。背景となる京都の豪壮な寺社といい、ワダエミによる現実離れしたバロック調の衣装といい、いかにもゴージャスな印象だ。それだけに、かつての大島映画に異様な迫力を与えていた演出上の不器用さが、たんなる不器用さとして際立ってしまうのである。また、それを補うためか、心中を語る独白やレトロ調の字幕が多用される、これはまさに禁じ手――それこそ御法度ではなかったか*[1]。 |
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このように、「御法度」はどう見ても失敗作だと言わざるを得ない。唯一それを救うものがあるとすれば、坂本龍一の音楽だろう。現代最高の映画音楽作家の一人である彼は、「愛の悪魔」(ジョン・メイブリィ監督)の音楽の延長上で、最小限の要素から最大限の効果を生み出してみせる。旋律はほとんどひとつしかないのだが、ピアノだけではなく、わざと古いオルガンを使ったり、さまざまなノイズを巧みに織り込んだりして、実に多彩な音響が生み出され、それが微妙なずれを孕みながら映像にまとわりついて、それなくしてはばらばらになりかねないシークエンスに辛うじて一定の連続性を与えるのである。だが、残念なことに、この離れ業をもってしても、「御法度」という映画そのものは救い切れなかったと言うべきだろう。 |
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それにしても、問題は、誰の目にも明らかなこの失敗作を正面切って批判する批評がほとんど見られないことである。管見に触れた限りでは、おすぎがこの映画を官能の欠如ゆえに切って捨てたのが僅かな例外ではなかろうか。そう、政治を捨て、しかも官能を欠くとすれば、ほとんど何もないということだろう。しかるに、口うるさいシネフィルになればなるほど、この映画に関しては口を揃えて賛辞を連ねてみせる。「御法度」を批判することが御法度(タブー)であるかのようだ。そのような日本的コンセンサスこそ大島渚が一貫して闘ってきた対象なのではなかったか。もちろん私も彼が脳梗塞を克服して映画界にカム・バックしたことを歓迎する。それだけに、彼がこれからさらに刺激的な作品を撮ることを期待しつつ、今回の作品は失敗作だったとはっきり断言すべきだと思うのである。 |
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さらに悪いことに、この映画は、海外、とくにヨーロッパで評判になるだろうと予想される。オオシマ、タケシ、サカモトというすでに神話的な名前が揃っただけで衆目を集めることは確実だ。そこへ美剣士のチャンバラとくれば、日本好きにはたまらないだろう。もちろん、たとえばアメリカでこういうストーリーの映画が撮られたとすれば、露骨な同性愛恐怖(ホモフォビア)が批判の対象となるのは避けられない。だが、日本映画であるかぎり、それもエキゾティックな趣向の一部として許されてしまうのではないか。こうして、「御法度」は、定型的な日本のイメージを反復し強化することで西洋のオリエンタリズムに迎合し、それゆえに国際的な成功を収めるのではないかと思われる。それは、しかし、大島渚にとってもわれわれにとっても決して良いことではない。だからこそ、私は、この映画が失敗作だという常識的な判断を繰り返すのだ。サウンド・トラックだけを唯一の収穫として、私はこの映画を二度と見るまいと思う。そして、大島渚が次に撮る映画がはるかにすぐれた作品となることを心から期待したいと思う。 |
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