Critical Space Archive

ベルリン――記憶の政治学
 その知らせは、6月25日、パリのシャイヨー宮で開催されていた<Anymore Conference>の最終日に飛び込んできた(<Any Conference>というのは、年に一度、建築をめぐってさまざまな分野の論客が語り合う会議だが、シャイヨー宮にあるシネマテックが近い将来フランク・ゲーリー設計の旧アメリカン・センターに移転し、シャイヨー宮の一翼がまるごと「建築都市」と称する博物館に生まれ変わるというので、今回の<Anymore Conference>はシネマテックのホールで開かれたのだ)。この会議の主要メンバーであるピーター・アイゼンマンが提案していた、ベルリンのホロコースト記念碑の建設が、ドイツ連邦議会で可決されたのである。
 この決定に至るまでには、長く曲折に満ちた道程があった。ベルリンにホロコースト記念碑を建てようという話が出てから、さまざまな芸術家や建築家の案が浮上してはまた消えて行く。そして最後に残ったのがアイゼンマンの案だったのだ。ブランデンブルグ門の南方、ヒトラーの塹壕跡にも近い広大な空き地に、2700本に及ぶ列柱が、波打つように林立する。この野心的な案には、当然、強い反発もあった。ただの記念碑としては、あまりに巨大ではないか。その反発に対し、アイゼンマンの案は、ホロコーストに関するアーカイヴを含むものへと、さらに拡張される。それがいっそうの反発を煽り立てる。実のところ、「汝殺すなかれ」という戒律を刻んだ簡素な碑を建ててはどうかという対案が出され、それを支持する声も少なくなかったのだが、コソヴォ紛争を契機にドイツもいざとなれば軍事力を行使しなければならないという論調が高まるなかで、「汝殺すなかれ」というのはいかにもまずいということになり、それが結局アイゼンマンの案の採択に有利に働いたというのは、皮肉ないきさつと言うべきだろう。
 問題はそれだけではない。ベルリンには、もうひとつ、ダニエル・リベスキンドの建てたユダヤ博物館がある(公開はまだ先のことだが、建築そのものは今年初めに竣工した)。これは20世紀最後のモニュメントとして歴史に残るであろう偉大な傑作だ。鋭角的なジグザグの線を描く鉛で覆われた建物。それを上からナイフで切ったように貫く空虚。リベスキンドによれば、ベルリンにおけるユダヤ文化がナチスによって徹底的に破壊された以上、ユダヤ博物館の見せるべきものはその不在そのものであり、したがって、この空虚こそがこの建築の核心であるということになるだろう。こうしてみると、このユダヤ博物館がそれ自体すでにホロコースト記念碑であると考えることもできる。その上になおホロコースト記念碑を建てるというのは、屋上屋を架すようなものではないか。しかも、このユダヤ博物館には、傾いた平面の上に49本の列柱が立ち並ぶ庭園がある。そこで、リベスキンドはアイゼンマンが自分のアイディアを剽窃したとまで主張することになったのである。
 率直に言って、リベスキンドは誰もが認める傑作を建てたのであり、その上にアイゼンマンを批判する必要も権利もないと思う。もっとも、都市の次元で見て、これほどモニュメンタルな建築がある以上、さらにホロコースト記念碑を建てるのはリダンダントだとも言えるし、作品の次元で見て、リベスキンドの建築が現実化の段階で多くの妥協を余儀なくされたにもかかわらず見事な一貫性をもっているのに対し、アイゼンマンの案にはまだ未整理なところがあるのも事実である。しかし、政治的に見た場合、かつての帝都ベルリンが新しい首都になるまさにその時にあたって都市の中心部に新たにホロコースト記念碑を建てるというのは、決して無意味なことではない。われわれはそこに、ドイツの良心を、少なくとも良心を示そうとする意思を、見てとることができるだろう。
 そもそも、リベスキンドのユダヤ博物館に関しても、思想的な問題を提起する余地がないわけではない。ホロコーストという言語を絶する事件を表象するために、空虚そのものを建築にするという論理、確かにこの建築に圧倒的な緊迫感を与えているその論理は、あまりにも否定神学的に過ぎるのではないか。ホロコーストを記念するにふさわしいのは、絶対の沈黙を空虚によって逆説的に表象する負のモニュメントとしての建築ではなく、届くことのなかった無数の手紙を保管するデッド・レター・オフィスのような建築ではないのか。もちろん、ユダヤ博物館の建築そのものは、空虚の否定神学を超える複雑な構造をもっている。内部を歩いてみるとわかるように、直線的でありながら人を迷わせる迷宮的な構造、そしてとくに小さな亀裂を思わせる無数の窓が、実際にはあの空虚の軸と同じくらい重要な役割を果たしているのだ。だが、その空虚の論理があまりに強靭であり、それがあまりにシャープに実現されているだけあって、それこそが唯一のホロコースト記念碑だと主張することは、中心化し得ない記憶を空虚な中心によって逆説的に中心化することにもなりかねないだろう。その意味で、アイゼンマンのいささか一貫性に欠けるようにも見える列柱とアーカイヴは、リベスキンドのユダヤ博物館と並んで、もうひとつの重要なホロコースト記念碑となり得るのかもしれない。
 ベルリンという都市は、遷都に伴うバブルのなかで、無惨な変貌を遂げつつある。旧帝国議会に連邦議会が移ってくるのに際して、焼け落ちたままだったドームをノーマン・フォスターがカラスのドームに作り替えたのだが、民主主義的な透明性をリテラルに表現しようという意図は伝わってくるものの、建築的にはいかにもとってつけたような印象を免れない。もちろん、商業施設となるともっとひどい。ヴィム・ヴェンダースがまだ壁のある時代に撮った『ベルリン・天使の詩』には、ポツダム広場の跡の荒地で老詩人が「これがポツダム広場であるはずがない、あれは本当に賑やかな繁華街だったのだ」と嘆くシーンがあるが、その場所は今では最悪の意味でポストモダンなショッピング・センターになってしまった。現代の詩人は「これがポツダム広場であるはずがない、あれは荒涼とした空き地だったのだ」と言わねばならないだろう。そんななかで、リベスキンドの建てたユダヤ博物館とアイゼンマンの建てるホロコースト記念碑は、資本主義的な忘却に抗する静かな記憶の線、記憶し得ないものの記憶の線を描き出すことができるだろうか。それは、ベルリンの建築のみならず、ドイツの歴史そのものにも関わってくる重大な問題である。

付記:ユダヤ博物館は2001年9月に公開の運びとなった。

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