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過去の4半世紀を振り返るとき、日本の舞台芸術は総じて停滞の中にあったように見える。60年代からの前衛演劇の実験の後の空白を満たしたのは、学芸会めいたパロディごっこであり、そして商業演劇への回帰だった。要するに、演劇はほとんど芸術であることをやめ、娯楽に成り果てたのだ。 |
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しかし、演劇というジャンルの内外で真の舞台芸術を目指す真摯な試みもないわけではない。とくに、演劇というより、美術・音楽・舞踊を結びつけたマルチメディア・パフォーマンスを、最新のテクノロジーを駆使して作り上げてきた<ダムタイプ>の活動は、狭い日本の演劇界を超え、世界的に注目を集めてきた。 |
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<ダムタイプ>は古橋悌二を中心とするさまざまなジャンルのアーティストたちが1984年に結成したグループであり、「pH」(90年初演)や「S/N」(94年初演)といったユニークなパフォーマンスを生み出していった。とくに、「S/N」は、古橋が、自らのHIV感染という事実をふまえ、エイズや性などをめぐる問題を、鋭い社会批判と洗練された変態[クイアー]パフォーマンスを織り交ぜながら全体としてハイ・テックな舞台に仕立ててみせた、衝撃的な作品である。それだけに、95年の彼の死は、さらに大きな衝撃だった。最近、彼の作品と発言を集めた『memorandum
/ teiji furuhashi』(Little More)という書物が刊行されたが、それを読み返すにつけ、35歳での早すぎる死が惜しまれてならない。そう、「われわれにとっての世紀末の芸術家は?」と問われるならば、私はまず古橋悌二の名を挙げるだろう。 |
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しかし、<ダムタイプ>は古橋を失った後も活動を続け、まず「OR」(97年初演)という圧倒的なパフォ−マンスを生み出す。それは、病院のベッドで生か[OR]死かの臨界に置かれた身体を、<ダムタイプ>のメンバーひとりひとりが追体験するという、共同的な「喪の作業」でもあって、その限りで共同制作が比較的スムースに進んだのも不思議ではないだろう。だが、それだけではない。この作品で、ダムタイプの映像と音響は一挙に「テクノ化」され、暴力的なまでのインパクトを獲得した。そして、そのような映像と音響によって臨界まで追いやられたパフォーマーたちの身体も、その脆弱性にもかかわらず、いや、それゆえにこそ、危機的なまでの緊張を帯びることになった。それらがひとつになって、かつてなくスリリングな舞台が生まれたのだ。 |
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この作品で大きな役割を果たしたのは、新たなメンバーとして音楽を担当した池田亮司である。95年に初のソロ・アルバムを出した彼は、以後「+/−」や「0℃」といったアルバムで静かなセンセーションを巻き起こし、世界で最も注目されるミュージシャンの一人となった。その音楽をテクノミニマリズムと呼んでおこう。60年代のミニマル・ミュージックは、西洋楽器や民俗楽器で単純な音形を反復し、それらの重ね合わせがモワレ効果で意識をトリップに誘い込むといった「知覚の現象学」を追求したが、テクノミニマル・ミュージックは、正弦波や白色雑音[ホワイト・ノイズ]といったもっと基本的な要素を反復し、正弦波同士が相殺しあって無音に聴こえるといった「知覚の機械学」を追求する。それは20世紀音楽が最後に到達した文字通りの零度なのだ。 |
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だが、それ以上に重要だったのは、この作品でかつてない強度と精度に到達した高谷史郎の映像である。彼はその後、坂本龍一が20世紀の歴史と音楽のすべてを総合しようとしたオペラ「LIFE」(99年初演)でも映像を担当し、20世紀のありとあらゆるイメージを極限的に圧縮した上で巨大な液晶画面の壁に散乱させて、観客を圧倒したのだった。 |
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こうしてみると、「OR」に次ぐダムタイプの新作が「メモランダム」(99年初演)と題されているのは、けっして驚くべきことではない。だが、そこで問題になるのは、もはや古橋悌二の思い出でも大文字の歴史の記録でもなく、記憶一般である。グループのメンバーひとりひとりの個人的な――しかし本人にとっては大文字の歴史と同じくらい大切な記憶を抽出し、それらのサンプルを一見ランダムに組み合わせることで構成されたこの舞台は、記憶をめぐる多面的な覚え書き[メモランダム]であるとも言えるだろう。いや、記憶と言うより、記憶の消失と言った方がよい。たとえば、覚え書き[メモランダム]がひきちぎられ、紙くずとともに散逸してゆく。また逆に、すべての情報がデジタル化され、ランダム・アクセス可能な形でアーカイヴに集積されるがゆえに、その情報の洪水の中で、かつてはごく限られた情報(黄ばんだ覚え書き[メモランダム]、セピア色の写真、等々)だけに支えられていたからこそはっきりしたストーリーに収まっていた個々の人生の記憶が、そのようなストーリーからはみ出、時としてさまざまな可能世界に分岐し(こうでもありえた、ああでもありえた……)、あげくのはてにはっきりした輪郭を失って雲散霧消してゆく。 |
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とくに、後者、つまり情報の過剰による記憶喪失という新たな症候を、「メモランダム」は目くるめく強度と精度で舞台にかけてみせる。舞台全面を覆って断続的に流れてゆく映像と音響。その流れの速度と密度が人間の知覚の限界に迫るとき、それは過剰露出されたフィルムのように真っ白な状態に近づいてゆく。だが、それだけではない。そこには、いわばその情報の激流をなんとか泳ぎきろうとするかのようなパフォーマーたちの身体がある。彼らは、たんに演技をしているわけでもなければ、ダンスを踊っているわけでもない。時に幼年期の記憶を反復し、時に身体に染み付いた癖のようなものを露わにしながら、そこでただパフォームしているとしか言いようがない。にもかかわらず、いわば記憶の超伝導状態を目指す映像と音響の流れの中に、それらの身体が抵抗体として投げ込まれることによって、そこに複雑な相互作用が生じ、情報の過剰による記憶喪失を超える出来事が立ち現れるのだ。それはまさしく舞台芸術においてしか体験し得ぬ出来事である。 |
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情報が極限的に集積され、キャンセル・アウトされて、零度に近づく――いわばすべての波長の光を含むまばゆい白色光に。それは、20世紀の果てに垣間見られた残酷にして無垢な白紙[タブラ・ラサ]、世紀の臨界でなだれ落ちながらほとんど静止して見える凍った瀑布だ。「just
float(ただ漂え)」というあくまでもクールなささやきに従って、そこに身を躍らせる。最後に視界が暗くなってゆくとき、アイヴズの「答えられない質問」の断片がそれとわからないほどかすかに響く。 |
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