Critical Space Archive

磯崎新とレム・コールハース
 磯崎新の実現されなかったプロジェクトばかりを集めた「アンビルト/反建築史」展が東京のギャラリー間で開かれ、充実したカタログも出版された。そのインパクトは、実現された建築群に勝るとも劣らない。1960年代の<空中都市>の、いかにもメタボリズム的な未来志向と、磯崎新独特の廃墟志向の重ね合わせ。70年代の<電脳都市>――とくに「コンピュータ・エイディッド・シティ」の、中央計算機を想定する点では古びてしまった、しかし巨大な被膜に覆われた空間の内部を自由に分割していくという点では今もって斬新な構想。磯崎新が都市から撤退しポストモダン建築の旗手とされた70年代半ば以降は後景に退いていたかに見えたそのような巨大都市の夢は、90年代に<蜃楼都市>――とくに「海市」という人工島の計画として甦ることになる。これらの図面、そしてとくに精巧な木製のモデルは、それ自体として迫力に満ちているとともに、その時期に実際に建てられたさまざまな作品の背後にあった建築家のヴィジョンを知る上でもきわめて興味深い。だが、建築というジャンルの面白さがその不純さにあることもまた事実だろう。建築家の構想が、さまざまな社会的圧力や技術的制約のもとで変更を余儀なくされ、言わば満身創痍で建ち上がる。それでもやはり、建ち上がった巨大な空間は建築家の構想を超えた部分をもっているものだし、そこに刻まれたさまざまな闘いと譲歩の痕跡もまた建築に歴史的なリアリティを与えるものでもあるのだ。そういう意味でも、80年代の<虚体都市>の夢を託した傑作「東京都新都庁舎案」が実現されなかったことは、残念と言うほかない。設計競技に落選することを覚悟で超高層ビルというプログラムをのっけから無視して構想されたこの案が実現していれば、東京は20世紀末を代表する建築を都庁舎として持ち得たはずだったのだ。
 さて、磯崎新が、「アンビルト/反建築史」展で、実現されなかったからこそ無傷で残った建築のユートピアを示そうとしているなら、レム・コールハースは、ボルドーで開催中の「変異[ミュタシオン]」展で、いかなるユートピアをも粉砕しながら驀進する資本主義の「世界=都市」のおそるべきリアリティを、あくまでアイロニカルに肯定してみせる。このイヴェントに際して出た同名の書物もまた、「世界=都市」とプリントされたいかにも悪趣味な黄色いビニールの外装の中に、まさにその「世界=都市」のありとあらゆる断面を800頁にもわたってアト・ランダムに詰め込んでみせ、読者を圧倒するだろう。あくまでもニュートラルに広がるアメリカの都市。おそるべき規模と速度で増殖する中国の都市(とくに広州から香港やマカオにかけて広がる珠江デルタ――たまたま磯崎新の「海市」の予定地でもある)。混沌としてしかも不思議な秩序をはらんだアフリカの都市(とくに美醜を超えた衝撃力を持つ写真の数々を通して見るラゴス)。この「世界=都市」のダイナミズムこそがリアルなのだ。それに背を向けて建築の美学などにうつつを抜かしているデザイナーは、時代遅れの観念論者に過ぎない。美しい建築が醜い都市に呑み込まれる? おおいに結構、ざまあみやがれだ。コールハースは、そう言って、アメリカや日本、そしてとくにヨーロッパの同業者たちにすごんでみせるのである。
 こうしたコールハースの立場を資本主義的シニシズムと呼んでも行き過ぎではあるまい。実際、この書物にまだ収められていない最近の講演でコールハースがよく使っているのは、円とユーロとドルを結びつけた<¥$>というロゴなのだ。世界資本主義に観念的に<NO>と言ってみたところで現実は少しも変わらない、むしろ、あえて<¥$>と断言してそのリアリティの中に飛び込むところから勝負が始まるのではないか。資本主義そのものの駆動力をバックにしたその脅迫は、旧世代の伝統主義者や前衛主義者に対して圧倒的な破壊力を発揮するとともに、ラディカルな否定性が無効になったかに見える場所でなおラディカルであろうとする新世代に圧倒的な影響を与えつつある。
 だが、本当にそれだけでいいのか。中国やアフリカ、いや、日本にも、おそるべき都市の混沌がある。現地の住民たちがそれを肯定しているかどうかなど気にもかけずに、ヨーロッパから見てその混沌をあえて称揚してみせる――かつて『錯乱のニューヨーク』(筑摩書房)を称揚してみせた延長で、さらなる錯乱の、一層さらなる錯乱のラゴスと次々に移動していく――というのは、典型的な(ポスト)コロニアリズムではないのか。また、そのような態度と、コールハース自身の建築――たとえばあのゴージャスな「ボルドーの住宅」のデザインとは、いったいどういう関係にあるのか。かつてそう問うた私に、コールハースはにやっと笑っただけで答えなかった。そう、もちろん彼は確信犯なのだ。しかし、その犯罪がおそるべき知性と精力によって遂行されていることは認めておくべきだろう。
 実のところ、東京のTNプローブでは磯崎新と私を共同モデレーターとする連続講演「ニュー・アーバン・コンディションズ」が予定されており、22日のレム・コールハースを皮切りに、『変異』の寄稿者も続々登場する予定である。さらなる論争の継続が期待される。
 ところで、この『変異[ミューテーションズ]』という書物には、世界中の人々からのメッセージを集めた「都市の流言[アーバン・ルーマーズ]」という付録がついている。その中に、他ならぬ磯崎新のメッセージも入っているのだ。それは、62年に書かれ、最初の本である『空間へ』の冒頭に序に代えて収録された「都市破壊業KK」――あくなき成長を続ける怪物としての都市を破壊しよう、とくに成長の加速によって自滅に導こうという反アーバニズム宣言の英語版なのである。「君たちがいま興奮して考えているようなことは原理的には私が40年前に書いてしまっているんだよ」という皮肉なメッセージ? そして、『反建築史』の冒頭には、この宣言をほぼ40年後に再考した「流言都市[ルーマー・シティ]」という刺激的なテクストが置かれているのだ。これらのテクストで、磯崎新は、自己をS(SIN)とA(ARATA)に分裂させ、否定と肯定、破壊と建築の一人二役を演じてみせる。そして、この分裂を抱えたまま、ラディカリズムの否定性と現実の生産性の間で引き裂かれた40年を駆け抜けてきた建築家は、この最新の宣言を、「アンとビルトの間を考えろ。[…]間=ギャップだ。否定をいうな、肯定をいうな」と結ぶのである。
 鉄面皮なアイロニーをもって世界資本主義のダイナミズムを肯定してみせるレム・コールハースと、老練にして柔軟な手管で「YES」か「NO」かの二者択一をすり抜けようとする磯崎新。どちらがゲームに勝つか、勝負はまだこれからである。

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