国家とはなにか

萱野稔人 著

 「国家とはなにか」と著者は問う。人はいつも国家について語っている。が、著者のように根本的にそれを問い直す人はめったにいない。今日では国家に関して、つぎのような考えが広く浸透している。国民がそれぞれ主権者であり、国家とはそのような主体の社会契約によって形成されるガバメント(政府)にほかならない。国民が納税するのは、みずからの安全をはかり、また、公共の福祉を得るためである。著者は以上のような考えに異議を唱える。
 現実には、国家がやっていることは、国民の意思とは関係がないし、国民の安全とも関係がない。たとえば、ブッシュが強行したイラク戦争は、アメリカ国民の総意ではない。それに対して、ブッシュの政策の裏に石油資本の利害が潜んでいるという見方がある。これはいわば国家を階級支配のための道具としてみる見方である。しかし、アメリカにかぎらず、国家は、国民総体の意志から、さらに、資本の意志からも自立した主体なのである。
 国家は、支配的な共同体が、他の共同体を暴力によって支配し、貢納・賦役させる所にはじまる。著者の比喩(ひゆ)でいえば、国家とはマフィアのようなものだ。ただし、それは暴力を独占することによって、みずからを合法化する(それ以外の暴力の行使を非合法化する)暴力組織である。しかも、国家はそれに対して住民が積極的に服従するような「権力」である。そのために、国家はたんに住民に課税するだけでなく、公共事業や福祉によって富を再分配し、住民の安全を図るかのようにふるまう。これは現代国家に固有の特質ではなく、古来、国家の本質なのである。
 国家は階級支配の道具ではなくて、それ自体支配階級である。だから、国家は経済的な階級対立がなくなれば死滅するという見方(エンゲルスやレーニン)は、甘い。国家は資本主義経済の中で変形されるが、自律的なものとして存続する。「社会主義」体制においては、死滅するどころか、なおさら強固に存在するのだ。

柄谷行人 |2005.8.7 |朝日新聞 書評欄掲載