コロニアリズムの超克 ― 韓国近代文化における脱植民地化への道程

鄭百秀 著

 近代日本の小説は、近代西洋の小説を翻訳することを通して形成された。だから、その意味内容がいかに日本的であろうと反近代的であろうと、すでに近代・西洋の影響下にある。この事実を別に恥じる必要はない。恥ずかしいのは、そのことを知らずに、「日本独自の文化」などといってまわることだ。これは日本に限られた経験ではない。そもそも、西洋で最初の近代小説を書いたとされるダンテも、先(ま)ずラテン語で書いて、それをイタリアの一地域の言葉に翻訳したのであり、その結果として、近代イタリア語(国語)が生まれたのだ。
 韓国の近代小説についても同様のことがいえる。ただ、問題を複雑にしているのは、それが、日本に植民地化されたなかで、日本の近代小説を翻訳するということを通して形成されたことである。それは、植民地化された文化状況を克服し、韓国文化の自律的な伝統を実現することを主張する人たちにとって、認めたくない事実である。しかし、著者の考えでは、植民地時代のそのような経験を否認することそのものが、コロニアリズムの遺産にほかならない。「コロニアリズムの超克」は、先ず、この事実を認めるところからしか始まらない。
 さらに、著者は、日本語で書いて芥川賞の候補となり、戦後は北朝鮮で活動した小説家、金史良の作品を詳細に分析しつつ、植民地化が強いた言語横断的な経験を、たんに否定的に見るのではなく、また、韓国に特殊なものとして見るのでもなく、むしろ、人間にとって普遍的な事態として見ようとする。純粋でオリジナルな言語や文化など存在しないのだ。こうして、著者は、韓国文化のオリジナリティーと特異性を唱える、さまざまなナショナリストの言説を痛烈に批判する。
 しかし、著者が特に言及しないにもかかわらず、読者は、ここで韓国について指摘されていることが、ほとんどそのまま日本についてあてはまることに気づかされるだろう。その意味で、本書は、韓国人の特殊な経験を普遍化するという課題を、見事に果たしたといえる。

柄谷行人 |2007.12.02 |朝日新聞 書評欄掲載