ウィキノミクス
ドン・タプスコット、アンソニー・D・ウィリアムズ 著
「ウィキノミクス」とは著者の造語で、不特定の人たちが水平的なネットワークを通してコラボレート(協働)するような生産形態あるいはその原理を名づけたものである。この名が、ウィキペディアというオンライン百科事典と関連することはいうまでもない。これはジミー・ウェールズが2001年、ウィキ(ハワイ語で速いという意味)というソフトを用いて創始したもので、誰でも自発的に参加して共同で編集できるため、またたくまに世界中に拡大し、日々、多数の言語で制作されている。制作されている、というより、生成している、といったほうがいいかもしれない。これらを全体的に管理する責任者がいないからだ。ゆえに欠陥が少なくないということは否めない。とはいえ、すぐに修正・加筆されるので、今後ますます充実するだろうことは疑いない。インターネットは、このようなマス・コラボレーションあるいは「群衆の知恵」を可能にしたのである。
著者は、もう一つの例として、1991年にフィンランドの若いプログラマー、リーナス・トーバルズが創始した、リナックスという名のオペレーティング・システムをあげている。彼はこのプログラムを、それを改変する者が他の人にも利用できるように開放しなければならないという条件をつけて、無償で開放した。「オープンソース」と呼ばれるこの原則は、明らかに私有財産制度への挑戦であったから、新しいアナキズムあるいは共産主義として攻撃された。しかし、IBMがこれを受け入れたのち、事態は一変した。情報の開放がかえって企業に利潤をもたらすということが判明したからである。こうして、コモンズ(共有財)は自由競争を妨げるものではないし、それがなければ私企業も成立しない、という考えが浸透しはじめた。
だが、IBMがオープンソースの原則を受け入れたのは、別に立派な動機からではない。そのままでは、マイクロソフトに勝てる見込みがないと考えたからだ。同じような動機から、ヒトゲノムの情報が公開された。すなわち、企業は、競合する他社による独占を妨害するために、知的財産を公開するのである。グローバルな資本の競争が、そのような動きをいよいよ加速する。著作権管理などによって、これを阻止することはできない。
したがって、著者は、現在の企業は「ウィキノミクス」の原理を採用すべきであり、また今すぐ行動を起こさなければ、負け組になるほかない、と警告する。しかし、たえまない競争がある以上、たとえ勝ち組になっても、それが長続きすることはない。ただ、それによって経済の総体が崩壊することもない。「巨大な力を手にした市民の時代がやって来る」だけである。
著者は、「ウィキノミクス」は資本主義において活用される原理であって、社会主義ではないということを幾度も強調する。しかし、われわれはここに、資本主義的発展がそれ自体を否定するものを不可避的に生み出す、という「弁証法」の例を見いだすことができる。
柄谷行人 |2007.6.24 |朝日新聞 書評欄掲載

