日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史―先史から現代まで
歴史教育研究会(日本)・歴史教科書研究会(韓国)編著
本書は、日本の歴史教科書が問題となった1997年から、日韓の歴史学者らが討議を重ね、10年を費やして編集してきた、日韓共通の歴史教科書である。著者らは、これによって議論を解消するのではなく、逆に、これを踏み台にして、議論が始まることを期待している。実際、これまでは、日本人は韓国の教科書を知らず、韓国人は日本の教科書を知らないで論争してきたにすぎない。本書の出版によって、議論の足場そのものが形成されたということができる。しかし、本書は、著者らが意図した以上に重要な示唆をふくんでいる。
どの国でも、歴史の教科書は、一つの国民国家の観点から書かれている。それに対して、本書はいわば、二つの国民国家の観点を入れようとするものである。それは一国の歴史で無視されている他国民の歴史を採り入れる。しかし、それだけではすまない。二つの国民国家の視点を入れると、期せずして、国民国家の仮構性そのものが見えてしまうのである。
たとえば、古代では、唐と結んだ新羅が、倭(ヤマト)が支援した伽耶や百済を滅ぼす。さらに、新羅は、唐に対抗してヤマトと手を結ぶ。他方、北方の渤海は、新羅に対抗して、ヤマトと連携する。これらは王朝国家間のめまぐるしく錯綜(さくそう)した関係であり、そこには「敵の敵は味方」という国家の力学しかない。このような時代に、まだ存在もしなかった「国民」の歴史を見いだすのは、滑稽(こっけい)である。
と同時に、逆に古代史からみると、国民(人民)が形成したとされる現代の歴史も違って見えてくるだろう。そこでは、国民が参与しているようにみえるが、実際は、諸「国家」が争っているだけなのである。
たとえば、日本が韓国を「併合」したとき、それは、アメリカがフィリピンを、イギリスがインドを支配するということを、相互に承認しあうことによってなされた。そこに国民の歴史など存在しない。国民の名の下に、諸「国家」が争う歴史があるだけだ。今日、それはどれだけ変わっただろうか。
柄谷行人 |2007.5.6 |朝日新聞 書評欄掲載

