抵抗の場へ ― あらゆる境界を越えるために

マサオ・ミヨシ×吉本光宏 著

 もし戦前・戦中の日本で通常の英語教育を受けた日本人が、戦後まもなくアメリカに渡り、名門大学の英文科教授になったとしよう。それは一事件と呼ぶに値する。大学でも差別が露骨に存在した時代に、非白人であるだけでなく、この前まで敵国であった国からやってきた日本人が、カリフォルニア大学バークレー校で、英文学の正教授となるということは、ありそうもないからだ。ところが、そのような人物がいた。マサオ・ミヨシである。しかし、この「事件」は日本ではほとんど知られなかった。一つには、日本の学者が嫉妬(しっと)したからである。さらには、ミヨシ自身がそのような物語化を拒んできたからである。
 こんな離れ業を可能にした武器は、何といっても、数百ページの本をすばやく読んで全文を覚えてしまうような記憶力だろう。まるで大西巨人の小説『神聖喜劇』の主人公のようだ。といっても、本書のなかで、こんなことが語られているわけではない。それなのに、私があえて以上のようなことを述べるのは、先(ま)ず、ミヨシがどれほど桁外(けたはず)れの人物であるかを、読者に知ってもらいたいからだ。通俗的な観点からいっても、これほど面白い波瀾(はらん)万丈の経歴をもった日本人はめったにいない。本書には、少なくとも、その一端が示されている。インタビューという形式であるため、著書には決して書かれないような、さまざまな経験がヴィヴィッドに語られているからだ。
 ミヨシは、一九六〇年代後半から、急激に変貌(へんぼう)したアメリカの知的世界の最先端にいた知識人の一人である。彼はチョムスキー、サイード、ジェームソンらと、掛け値なしに、親友であった。だが、彼らの間でミヨシを際立たせる特徴は、絶え間ない「移動」にある。第一に、日本からアメリカへの「移動」がある。さらに、六〇年代の市民権運動の中で、政治的活動にコミットするようになった「移動」がある。しかし、いかにもミヨシらしいのは、むしろ次の点である。
 バークレーで知り合ったチョムスキーが、政治活動を広げるかたわら、専門の言語学を継続したのに対して、ミヨシは英文学を放棄してしまう。教師として、二十名以上のヴィクトリア朝文学専攻の教授を産み出しながら、彼自身はそれを放棄して、新たな道に進む。その過程で、彼はアメリカにおける日本学にも介入し、その状況を根本的に変えてしまう。それまでタコツボの中で自足していた日本研究を、強引に外気にさらすことによって。しかも、その結果に満足することはなかった。
 彼は資本主義的グローバリゼーションの中で、日本学のみならず、アメリカの「人文学」そのものが終わったことを宣告する。と同時に、それを放棄してしまう。もちろん、隠居ではなく、新たな方向に挑戦するためだ。では、かくも絶え間ない、抵抗と移動のドライブは、どこから来るのか。本書は、それが戦中日本における体験に由来することを示唆している。その意味では、この稀有(けう)な人物を産み出したのは日本である。

柄谷行人 |2007.4.15 |朝日新聞 書評欄掲載