金と芸術 ― なぜアーティストは貧乏なのか?

ハンス・アビング 著

 芸術への崇拝は、十九世紀西洋で、ブルジョア的な金権と経済合理性に対するロマン主義的反撥(はんぱつ)として生じた。芸術家は金のために仕事をするのではない、美的価値は市場価値とは異なるというような考えが、この時期に生まれたのである。しかし、「芸術の神話」が真に確立したのは、芸術家らが反抗しようとした、当のブルジョア自身が、そのような芸術を崇拝し、そのために奉仕することを高尚なことだと考えるようになったときである。
 さらに、国家も芸術を支援することで威信を示そうとするようになった。芸術を理解する文化的国家と見られたいのである。その結果、芸術は市場によってよりも、政府や企業・ブルジョアからの贈与によって成り立っている。それだけではない。贈与が、市場価値とは異なる美的価値を保証する仕組みになっている。たとえば、市場で売れなくても、公的な助成金を得たり、美術館によって買い上げられることが、かえって作品の美的価値、さらには市場価値をも高めるからである。
 以来、芸術は、それ自身ビジネスでありながら、同時にビジネス性を否定する、あいまいなものとして存在してきた。芸術の世界には、自由な競争が存在するかのように見えるが、けっしてそうではない。芸術における「贈与の経済」には、文化官僚や企業と結託した専門家集団の独占がつきまとう。芸術のためではなく、彼ら自身が存続するためにこそ、芸術への援助がなされるのである。経済学者であるとともにアーティストである著者は、本書で、そこに存する自己欺瞞(ぎまん)的な仕掛けを明快にあばきだした。
 二十世紀前半に、前衛芸術は「芸術の神話」を破壊しようとした。たとえば、「泉」と題して便器を出展したデュシャン。それは、いかなるものも芸術でありうるという主張である。しかし、ブルジョアは、そのような前衛芸術を高尚な芸術として仰ぐことによって、その破壊性を消してしまった。近年では、ポストモダンな芸術家は、商業的であることを肯定し、芸術の価値を市場価値と同じものと見なしている。だが、これも「芸術の神話」を壊すことにはならないだろう。芸術を神聖化するように働くシステムが存在するからである。
 その中でも最も大きいのは、政府による贈与である。オランダ人の著者は、オランダ政府が現代アートを強力に支援し、それによって美術界を変えてしまったことを指摘している。こうした援助には、貧しい芸術家を助けるなど、さまざまな理由づけがなされるが、著者によれば、明白なウソである。芸術家は概して貧しい。それは第一に、芸術家が必要以上の金を求めていないからであり、第二に、その志望者が多すぎるからだ。芸術家への助成を増やすと、もっと志望者が増えるだけである。では、なぜ芸術に贈与したがるのか。わが国は、わが社は、芸術に理解がある、というポーズを示したいからだ。芸術を神聖化するシステムは、国家と資本を神聖化するシステムにほかならないのである。

柄谷行人 |2007.2.25 |朝日新聞 書評欄掲載