アナーキスト人類学のための断章

デヴィッド・グレーバー 著 |高祖岩三郎 訳

 著者は人類学者であり、アナキストの活動家である。人類学とアナキズムの結びつきは唐突ではない。「未開社会」を対象としてきた人類学者モース、クラストル、サーリンズらは、そこに国家と資本主義に対抗する社会を見た、広義のアナキストであった。しかし、今日の人類学者はそのことに注目しないし、アナキストも人類学に注目しない。これらの結合の意味を確かめながら考え且(か)つ行動して来たのは、おそらく著者だけであろう。
 研究に専念していた著者は、1999年シアトルでの反グローバリゼーションの闘争を見て、初めて活動に参加したという。だが、そのとき彼が気づいたのは、ニューヨークの「直接行動ネットワーク(DAN)」の会合のやり方が、かつてフィールドワークのために2年過ごしたマダガスカル高地の共同体における評議会とよく似たものだということであった。
 これを読んで私は、ハンナ・アーレントが1968年に、世界各地の新左翼運動で同時的に広がった「評議会」(日本では全共闘に代表される)について述べたことを想起する。一般に、評議会(ロシア語でソヴィエト、ドイツ語でレーテと呼ばれる)は、マルクス主義と結びついているようにみえるが、もともとアナキストが考えたものだ。しかし、ハンナ・アーレントは、評議会は「政治的行為の経験そのもの」に存するもので、「まったく自発的に、そのたびごとにそれまでまったくなかったものであるかのようにして出現」するのだ、という。
 つまり、それは誰かが考案したものではない。むしろ、現にある、反集権的な自然発生的運動の形態を肯定するところにこそ、アナキズムがある。著者のアナキズムも、そのようなものである。著者は「未開人」から学べ、といっているのではない。われわれはそうと知らずに、彼らと同じことをやっている。国家と資本が人間の本性に根ざすとすれば、それに対抗することも人間の本性のようなものだ。人類学が教えるのは、そのことである。

柄谷行人 |2006.12.17 |朝日新聞 書評欄掲載