黒いアテナ -- 古典文明のアフロ・アジア的ルーツ
マーティン・バナール 著
本書は、ギリシャに西洋の起源をみる西洋人の見方を根本的に覆した労作で、「黒いアテナ」(全4巻予定)の第2巻(91年刊)を全訳したものである。
著者によれば、古代のギリシャ人は、ギリシャ文明がエジプトとフェニキアに基づくと考えていた。ところが、ギリシャ文明が征服者アーリア人に由来する独自のものという説が、一八世紀末にドイツを中心に西欧で広がり、最近まで支配的だった。そのような〈アーリア・モデル〉を著者は西洋中心主義、人種差別として批判し、〈古代モデル〉に戻るべきだと主張する。そして、この自説を〈改訂版古代モデル〉と呼んでいる。
ただ、ギリシャの文化や思想が、地中海=アフリカ=アジア的な世界の交通なしにありえないという見方は、本書が出る前から常識になっていた。しかし、神話や言語の起源などを丹念に分析しながら自説を展開した本書がもたらした衝撃は大きかった。「黒いアテナ」という表題のせいもある。本書を推す小田実によれば「クレオパトラは黒かったか」という週刊誌記事が出たり、論争も起こり、以後、〈アーリア・モデル〉を無邪気に唱えることはできなくなった。その意味で「ギリシャの奇跡」を自己の所有物とする西洋中心主義に対する本書の挑戦は成功したといってよい。
さらに本書にはもう一つ挑戦がある。それは、紀元前六〜五世紀に真の宗教や哲学や科学がはじまり、中国に孔子と老子、インドに釈迦、ペルシャにゾロアスターが登場し、バビロニアでユダヤ教が成立したなど、この時代に世界史的な大変化があったとする従来の見方に対するものである。いうまでもなく「ギリシャの奇跡」もその中に入れられる。
しかし著者によれば、その変化は紀元前一二世紀ごろに起こった、もっと画期的な変化から派生したものにすぎない。画期的な変化とは、紀元前一一五九年にヘクラ火山(アイスランド)の噴火がもたらした世界的な気候悪化だったという。豊富な事例から自説を説く本書は、グローバルな経済と環境悪化がさし迫った現在、妙に身近に感じられる。
柄谷行人 |2006.1.29 |朝日新聞 書評欄掲載

