マルチチュード --〈帝国〉時代の戦争と民主主義 上・下

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート 著

 本書は『〈帝国〉』(二〇〇〇年原書刊)の続編として書かれている。『〈帝国〉』では、ネグリとハートは、アメリカ合衆国が湾岸戦争において国連の合意の下に行動したことから見て、帝国主義とは異なる、いわば古代ローマ帝国に似た「帝国」が形成された、と考えた。しかし、〇一年九月一一日以後におこった事態は、それとはほど遠かった。世界は「帝国」どころか、公然と帝国主義の時代になった。おまけに、それをもたらす引き金を引いたのが、「マルチチュード(多衆)」的反乱の一つであるともいえるイスラム原理主義者であった。本書で、著者はそのような点を修正しつつ、現状を分析し、新たに積極的な展望を見いだそうとしている。
 しかし、著者がいう「帝国」は、もともと経験的な概念ではなかった。それは国家というよりも、世界的な資本のネットワークそのものなのである。それに対抗するものとしての「マルチチュード」も経験的概念ではない。それは、人民や労働者階級という現象において消されてしまうような何かなのである。マルチチュードは多種多様なネットワークとしてあり、また絶対的に民主主義的である。それは近代の国家と資本制経済の下でもたえず存在するのだが、国家や資本によってつねに疎外される。ゆえに、マルチチュードを自由奔放に発現させれば状況を変えられる、と著者は考える。
 ところで、この考え方を著者はスピノザに依拠して述べているが、私のみるところ、それは無政府主義者プルードンの考えだといったほうがよい。プルードンは、ルソーのいう社会契約や人民主権は、絶対主義王権の変形にすぎず、真の民主主義ではない、とみなした。また、彼の考えでは、真の民主主義は、将来に実現されるようなものではない。それは現に、資本と国家が支配する経験的世界の深層に存在する。それは連合的で相互的で創造的である。したがって、そのような深層の「リアルな社会」を発現させればよい。
 実は、マルクスをふくむドイツの青年ヘーゲル派は、このような考えの影響を深く受けていた。ネグリとハートは、マルクスのいうプロレタリアートは労働者階級のように限定されたものではなく、マルチチュードにほかならないという。初期マルクスの考えは確かにそのようなものだ。その意味では、本書は『共産党宣言』(一八四八年)を現代の文脈に取り戻そうとする試みといえる。すなわち、帝国(資本)対マルチチュード(プロレタリアート)の世界的決戦。
 しかし、このような二元性は、諸国家の自立性を捨象する時にのみ想定される。こうした観点は神話的な喚起力をもち、実際、それは六〇年代には人々を動かしたのである。とはいえ、私は、このような疎外論的=神話的な思考をとるかぎり、一時的に情念をかき立てたとしても、不毛な結果しかもたらさないと考える。グローバル資本主義(帝国)がどれほど深化しても、国家やネーションは消滅しない。それらは、資本とは別の原理によって存在するのだから。

柄谷行人 |2005.12.11 |朝日新聞 書評欄掲載