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近代化とは、簡単に言えば、共同体の崩壊過程である。したがって、近代に肯定的な者も否定的な者も、「共同体」を規準にしてその立場を表明せざるをえない。前者は、共同体からの個人の分離をとりあえず寿ぎ、後者は、共同体への回帰を唱える。だが近代を受け入れ、肯定する立場を取ったとしても、人間の世界から共同性を消去し尽くすことはできない。しかし、われわれは、近代にあって共同体を極度に称揚する態度が、全体主義、狭隘なナショナリズム、ファシズムなどを産み出してきたことを知っている。こうした悲惨への道を回避しながら、なお共同体を思考し、構想しうるか。本書は、こうした問いに捧げられている。 |
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本書のカント読解の基本的な文脈は「ヒューム批判」である。ヒュームは、自己を実体化する形而上学を批判し、自己はただの仮象だとした。それに対して、カントは、自己は経験的には無だが、離脱しがたい形式、超越論的仮象としてあると言う。同じことは貨幣にも言える。価格が商品相互の関係だとすれば、貨幣はただの便宜上の道具に見える。だが実際には、貨幣への欲動こそ人を捉える。貨幣は、商品体系の体系性を構成する「超越論的統覚」だからだ。 |
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ところで、商品交換は、交換一般の一部でしかない。他に互酬的贈与、収奪、アソエーションがある。こうした交換の類型論を基礎にして、柄谷は、『資本論』の読解から、「資本制(商品交換)=ネーション(互酬)=ステート(収奪)」の三位一体性を導出する。三つの内のひとつだけを打倒しようとしても、必ず足をすくわれる。 |
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希望はアソシエーションに託される。アソシエーションこそコミュニズムであり、他者を「自由」として尊重するカントが目指した世界である。だがその実現には、貨幣はなければならず、あってはならない。超越論的統覚としての貨幣は不可欠だが、それが資本へ転化するからだ。アンチノミーは地域通貨LETSによって解消されるかもしれない、との展望が示される。 |
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たとえばLETSにそうした可能性があるかについては、理論的懐疑もあるだろう。だが私が確実に共感するのは、理論は批判的解明を越えて積極的構想を示すべきだとする覚悟である。左翼が否定的スタンスを取るだけで、何かを成しとげた気分でいられたのは、批判の対象としてではあれ社会主義体制があったからだ。それを失った今、単に否定的なボジションに立つことは、欺瞞である。 |
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