Critical Space Archive

 ヴァカンスあけの年度始めで活気づくパリの九月は、出版から映画、演劇、音楽、美術館にいたるまで、文化産業にとっての勝負時でもある。新学期と仕事始めにあわせて、劇場やコンサートホールは年間のプログラムとともに通年の契約を求める大きな広告を街中に張り巡らせる。
 9月14日ヴェルサイユ宮殿の大厩舎で、ブーレーズ指揮による自作のコンサートが行われた。演目は「アンテームII」(1997) と「レポン」(1981-84)。主催はブーレーズが創設した現代音楽研究センター IRCAM、演奏にはブーレーズが率いるオーケストラ、アンサンブル・アンテルコンタンポランが加わっている。現在彼は、現代音楽と世界の民族音楽のためのコンサートホール、シテ・ド・ラ・ミュジックの運営も任されているから、事実上、現代音楽に関わるフランス国営機関は全てブーレーズの独占状態にある。そもそもヴェルサイユ宮殿での、ブーレーズの、ブーレーズによるコンサートという企画がすでに、なんともフランス現代音楽の「王様」にふさわしい。
 会場に到着するのが遅れて、入場したのは「レポン」の演奏の前の幕間だった。ヴェルサイユとはいえ馬小屋は馬小屋で、演奏会場はロココのファサードを持った古びた体育館以上のものではない。その空間の中央にステージが設けられ、その上にアンサンブルと指揮者が位置する。客席はそのステージの両脇に設置され、その客席をとりまくようにして、空間の四隅と指揮者とオーケストラの背後の壁側の二点に、ピアノ二基、グロッケンシュピール、ヴィブラフォン、シンバロム、ハープが配分される。このオーケストラと六人のソリストの対話の形で曲は進行して行く。ソリストの演奏はリアルタイムでシンセサイザーによって音に変換が加えられ、さらに会場内に分散した六つのスピーカーで音の空間化が図られる。この自慢のIRCAMシステムを通して音が立体的に移動していくのを聴くのは日常の耳の遠近感を揺るがすちょっとした快感だが、馬小屋では、その効果もシテ・ド・ラ・ミュジックには及ばない。
 とはいえ、さすがブーレーズ一座の興業だけあって演奏自体は優れたものだった。技術的な分析は筆者の手に余るが、ブーレーズ自身がスパイラルという比喩を用いて語るように、様々なテーマが微分的に屈曲しながら連続的に展開され、いささかも楽曲の統一を揺るがすことなく完結するありさまは興味深いものではある。ただ、まさにその統一自体が、あるいはその統一に感じとられる芸術作品の完成への意志が、大時代的な印象を与えたことも否めない。いかにもあざとく思われた照明の効果についても同様のことが言える。終盤に入りオーケストラのパートが終わると、ステージの照明に代わって、壇上の指揮するブーレーズと聴衆の背後の六人のソリストにスポットライトが当てられ、その光が終演とともに落とされて、聴衆の喝采がおこる。この照明が、楽曲の統一を最終的に大芸術家としての作曲家=指揮者への焦点化によって支えようとする意志のあらわれだ、と見るのは穿ちすぎだろうか。
 高級住宅街ヴェルサイユという土地柄なのか、聴衆は完全に高年齢・高所得者で占められており、二百余の客席の割にあまりにも多いプレスの招待席を見るにつけても、これはコンサートと言うより街中の広告に似た年度始めの儀式なのだと思わざるをえなかった。ブーレーズが独占する国営現代音楽事業については、その閉鎖性に対する批判も根強く、その観点からすれば、IRCAMで創作した自作をブーレーズ自ら指揮して演奏会を催すのは、利益還元の一環でもあるだろう。しかし、その利益還元は、もはやブーレーズという特権的芸術家と固定客の閉じた回路をこえて広がることはない。たしかに現代音楽というマイナージャンルに、研究・教育機関からオーケストラ、演奏会場まで整えて再生産のサイクルを完成させ、固定客まで獲得したブーレーズの手腕は見上げたものだ。だが、それは彼が文化的前衛を自認するフランスの国家のロジックに身を寄り添わせて、前衛のままエスタブリッシュメントと化したことをも意味している。エスタブリッシュメントとしての前衛。このポジションは、しかし、文化状況の相違をこえて、20世紀末の世界の見慣れた光景となってしまった。

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